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命燃やして [小説の下書き]

隣室にAが入居して約3カ月、私は生まれてから今日まで受けた事など全くなかった暴力をAから受けました。はじめは警官の前でボクサーのようなファイティングポーズで,私の顔面をめがけた握り拳(その時は警官が彼女の手を抑えた)2回目は、ゴミを捨てていた私の脇腹へ、自転車のハンドルの先端をぶつけた。3回目は洗濯物を干していた私に、竿(金具)を、私の頭めがけてスライドさせ、頭にぶつけた。、4回目はマンションの玄関ドアを中に入ろうとする私に強くぶつけた件。そしてかなり危険だったのは、5回目の右腕への執拗な暴力行為。

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この5回目は6月24日の夜八時ごろに起きました。私に用事があると、彼女の会社の人が迎えに来ました。どちらも顔見知りでしたので、一緒に出掛けようと、マンションの玄関へ。そこで待ち構えていた彼女に手首をきつく締められました。自分で抜こうとしてもできません。手首の右側に出ている丸い骨の上をぐいぐい押してきます。気絶しそうな痛み!。その後私の手の平側に指を滑らせ、血管を探す模様。グリグリ回し血管を指の爪で押していました。

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私はボーとなってしまいそのまま倒れそうでした。彼女は170センチぐらいあるらしく、私の手は子供のような手のひらです。そのまま倒れそうになった時、迎えに来た男性の一人が、私にその人の携帯を渡してくれました。私は「痛い!助けて!」と言いました。漸くもう一人の男性が彼女の手を解きました。その時点では一体何が起こったのやら、私は意識が朦朧とした感じでした。

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その後、彼女の上司から言われた言葉が意外でした。「何で彼女をいじめるのだ、こんなに泣かせて可哀そうじゃないか」私は朦朧とした頭で考えました。虐められているのは私で、今も手首をこんなにされてしまった。しかしもう声は出ません。その場に倒れ込みました。耳元で「こいつは,きちがいなんだよ」。と彼女の声が暗い部屋に響きます。ここで私をどうするつもりなのかと、恐ろしくて体がブルブル震えました。暫くして彼女が言いました。「部屋のドアに監視カメラつけて~、この女が怖いから」

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そしてその日は最初に私を連れに来た男性に、マンションまで車で送られました。この儀式は何?私を暴力で今まで痛めつけた彼女A,その彼女が怒られずに、何故私がこのような仕打ちを受けるのだろうかと。帰宅したのは夜遅くでした。私は着替えもせず、そのまま朝までぐったりとしたまま横になっていました。怖い!どうして私が彼女を虐めたというのだろうか?いくら考えても理解できませんでした。

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その後、私はあの日の「出て行け」と言われた言葉に従うべきか否かを真剣に考えています。しかし私自身が彼女を虐めた事はありません。勿論、彼女の暴行はいつも突然ですから、その後に庭などで顔を合わせたときには、どうして暴力を使うのか尋ねますが、部屋に逃げ込んでしまいます。この2カ月、体のあちこちに痛みが走り、食欲がなく、最初は御飯が喉を通らない始末でした。

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一日も早く逃げた方がいいという意見もありますが、このまま様子を見て居たいとも思う事も。私はどうしてこんなことになったのかを知りたいのです。このマンションに入居してから、約6年、何事もなく暮らしてきました。なのに隣室にAが来て以来、私は且つてない程の暴力への恐怖で心身がもまれ続けました。その理由と、彼女の暴力に対する警察の判断を仰ぎたいと思います。警察からは、私が彼女に暴行受けたという証拠がない、よくあるような、他人を陥れる作り話かもしれない等とも言われ吃驚したり憤慨したりしました。しかし体中に痛みが走るこの体が何よりの証拠だと私は思います。

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今夜の私は、時の流れに逆らうのは止めようと思っています。彼女の暴力への罰は何時か神様から下されると信じます。人の体をおもちゃの様にいたぶった彼女。その人なりの理屈があるのでしょう~しかし手首の件は、とても危険だったそうです。そこは急所。少し間違えば、私はもうこの世にはいませんでした。彼女、この技をどこで覚えたのか、心配した関係者もいたほどです。

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7月29日の夜も更けてゆきます。TVではオリンピックのニュースが。私も見たかったのですが、今日は消えかけた私の命の灯を燃やそうと、頑張っていました。まだまだ自分の人生を捨てる気持ちにはなれません。戦中戦後を必死に育てて呉れた祖母や母の愛に、冥途でそれを見守っていた祖父や父の愛に報いたい私です。
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シニア年齢17歳 [小説の下書き]

前回の続きになります。ワクチンの予約も済みほっとしていた私、またまた不安な日々が。私に暴力行為をした彼女がまた戻ってきました。先日、そのことで彼女の上司と面談しました。その折、あの日以来、私の体調もすこぶる悪いと伝えましたが、彼女もそういっている。あなたの顔を見ると、病気になると。また猫を飼っているのならすぐ出て行ってほしいと。私には飼い猫はいません。

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どうしたものかと、思い悩みました。行くあても、その費用などない私に無理難題。勿論、此処の部屋には愛着もあります。警察にも相談もしましたが、まったく解決はできません。このまま、あの女性の暴力的な仕打を認めろと言うのでしょうか? もうこりごりです。食事ものど通らない日々が半月以上も続きました。げっそりした顔と、出ない声。断末魔の叫びのようです。

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一体、私がどうすればよかったのか、猫が痛めつけれれ、猫排除の凶器を庭に設えられた事を目をつぶって見逃せばよかったのか。私はできません。もちろんトップが暴力を黙認するとは思わなかったからです。怪我をしなかったから今回は黙認なのか、私に怪我をさせても彼女を庇うのかが不明ですが、私の負けです。ここを出ても私には行く先のないこと、充分ご承知のはずです。

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こうして77歳のお誕生日から9か月経った今、自分自身の身の振り方が決まらない儘、梅雨の季節を迎えようとしています。飛び降りようか、このビルで過ごした日々はとても幸せでした。生徒さんから「先生のおかげで、こんなに沢山の歌が歌えるようになりました」そう言って頂いた時の嬉しさ。

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私への暴力行為は今の社会ではどう見るのか、怪我がなかったから罪はないのか、しかし怪我をさせようとして行った行為を暴力行為というのではないのでしょうか。派手な衣装にモンローウォークのその人、今日も勝ち誇って、極彩色の洗濯物をバタバタ干しています。一方私はネットを駆使して、今回の答えを見つけています。亡母17回忌の法要もできない自分を「許してください」と母に手を合わせるばかり。

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深い悲しみに終始した5月、あと数日ですね。昨日、とても素敵なドレス頂きました。人生の殆どを音楽分野で過ごされた先輩から、思い入れのある素晴らしいドレスを頂きました。これからのステージで着て下さいと、大切なドレスを下さいました。頑張りたい!、まだまだ生きていたい!しかし毎日起こるわざとらしい挑発行為!あの女性の体が蔭になって、私の心はいまだに夜の儘。






                       






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思いがけない日々 [小説の下書き]

私にとって恐ろしい日々が続いています。マンション住まいは人生で2度目の私です。商店街の裏通り、便利で静かなマンションに転居して5年半が経ちました。部屋数は3つ。所謂3DKです。一人暮らしには充分です。私の大好きな庭は縦型の6畳間を横に2つ並べた感じ、12畳ほどぐらいでしょうか。東の角には平戸つつじ、真ん中にカシワバ紫陽花、右に紫陽花があり物置はお隣との境にあります。 P5121992.yy88.1600.JPG 終の棲家の筈だった我が家に、不穏な空気が起こったのは2020年10月12日から。以前のような楽しい日々はもうありません。庭には四季折々の趣があり、漸く、独り暮らしを楽しめるまでになりました処でした。近所には美味しい焼き麦屋さん。くつろぎのクレアパーク。此処にはお子さんからシニアの姿が始終みられます。またイベントも開催されることもあります。 P5121994.yy88.1600.JPG その住まいで、今度はまた新しいアクシデントが。ある日隣室の女性が、縁側の猫を蹴り上げたことから事件は始まりました。60半ばの彼女は、居酒屋さんの店員さん。背の高い(私より首一つ高い)女性です。 P5122003.yy88.1600.JPG 猫の事件の翌日、今度は猫に衝撃を与えて追い払う器具が庭へ。私の庭右側の柵に取り付けられました。「外してほしい」との願いは受け入れられず、ある朝、玄関ドアを叩く彼女、どうしてあたしに、偉そうな口をきくのかと、すごい剣幕。幸い私への荷物を届けに来た宅配の男性が、これを観ていました。 P5122005.yy88.1600.JPG しかし私も怒りを抑えきれづ反論、そこで110へ電話しましょうかと私。同意した筈の隣室の女性は、急にドアを閉め、私へこう言いました。「これから●●に逢いに行く、この糞ババア~」楽し気に腰を左右に振って出かけてゆきました。その後、お巡りさんが来ましたが、彼女の姿はなく、取敢えず猫よけ柵を観てもらいました。 P5121993.yy88.1600.JPG そして彼女への聴聞もあり、おまわりさんからの二人への結論。それぞれのドア前で結論を聴きました。私へは「この方は柵は外してくれるそうです。あなたは、この方があなたに近寄ないでほしいそうです。気分がわるくなり病気になそうですと。なのでこれからは絶対に近寄らないでください」私は 開いた口がふさがりません。 P5121997.yy88.1600.JPG その結論に私なりの反論していた時です。突然、彼女の拳が私の顔に向けて振られました。TVのボクシング試合で見るような、あのポーズ(多分、ファイティングポーズ)です。私たちの距離は1m足らず。ビックリしたお巡りさんがその腕を押さえましたが、彼女、オオカミのような目で私を観ています。まるで野獣のようにゴーっと唸るような低い声。目だけがにやにや笑っていました。 P5061743.yy88.1600.JPG あれから12日が過ぎました。私は今、声が上手く出ません。あの恐ろしい形相が焼き付いて離れません。食事も多くは取れず、いつも心臓の動悸が激しい気がします。怖くて入浴も周囲の気配を確認して入ります。その後も早朝に室外を出る私への嫌がらせ。私の周囲は彼女への同情票もあり、ピンクのジャンバーをはためかせて、自転車でお出かけ。くそ婆、この言葉、今回は彼女及びその周辺から何回も何回も言われました。今、私は彼女の攻撃を予感しています。今度は、大怪我か、命の危険も感じています。    2021.05.13日(小説の下書き)より

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そこは交差点 [小説の下書き]

暑い夜です。さっき迄雷鳴が轟いていたのですが、今はいつも通り静寂の夜です。静か過ぎるのは嫌なのでテレビが音楽を聴くかの何れかを選んで私の夜は過ぎてゆきます。今夜は小腹が空いたので鯛雑炊。と言っても市販のちょっと高級な鯛ちゃづけの素です。冷凍してあるご飯をお雑炊にして食べました。

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昼間、随分歌ったので気分は最高。生徒のTさん、チャーミングな声の持ち主です。そして兎に角新しい歌を覚えるのが早いのです。今日は2人だけの発表会を想定して2時間余り歌いました。私は全部を歌わず手伝いのみでした(笑)いい汗かいて上機嫌の2人です。マイク無し、2か所の窓を開けて歌います。5曲歌っては休んで、冷茶にチョコレート。これの繰り返しです。今の二人が夢中で覚えているのが、大石まどかさんの深い川。涙が零れる程、いい歌です。Tさんと私、趣味が合うはず。Tさんは豊島区池袋生まれ、私は文京区竹島町生まれで同じ時代を生きてきました。

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それでは今夜も『旅ゆけば~』のつづき。どうぞ宜しくお願い致します。
昭和48年、新宿区早稲田の一角は区画整理が行われました。いま、Googleで見ると確かに広い範囲が大きな通りになっています。私たちの家が建つ筈だった場所には沢山のビルが建っていました。其の区画整理では減歩率高く、母の家の土地は三分の1程減ってしまいます。換地先と元の家は数メートルしか離れていませんが、母が嫌ったペンシルビル向きの場所でした。住んでいた家の場所、そこは、交差点の真中になったのです。悩んだ末母は移転を考えました。

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あの母が、生粋の江戸っ子が、どうして何故と考えましたが、母の決意は固く、当時私の嫁ぎ先、川越で家を見つけることに。母が来る、嬉しい。しかし母が可哀そうでなりませんでした。其の1年後、川越に母の家が建ちました。静かな住宅地に。目の前の公園がとても気に行ったようです。

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母がそこで済むようになってからも、10歳年上の夫は相変わらず仕事にテニスの日々。しかし私は殆ど母の家で暮らすことになりました。其の頃、A氏も時々訪ねてくれました。そんな平和な暮らしが続いた母に辛い知らせが。引っ越してから数年経った頃A氏が入院したのです。ある日母は私に一緒に行って欲しいと、聞いたたこともない程の弱々しい声で言うのです。

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そこは何という病院だった記憶はないのですが、田園調布で暮らしていたA氏には不似合な質素な病院でした。部屋番号を聞いていた私に「貴女だけ会っていらしゃい、私はここで待て居るから」と母が。A氏は私の顔を見て嬉しそうに、「お母さんは?」と聞きました。玄関に居ます。そう私が言うと「そう」とほほ笑んで、後は無言でした。その時、上品な髪の白い女性が戻って来ました。その日以来、A氏が川越を訪ずれる事はありませんでした。

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そしてに5年ほどの歳月が流れ、母は2階4室に1階2室のアパートからの収入で独り穏やかに暮らす日々が続いていました、しかし、母はハイヤーを呼んで、早稲田の美容室迄良く通ていたそうです。後に運転手さんに教えて貰いました。A氏も私も母から離れてしまった其の頃、母の体には徐々にある病気が忍び寄っていたのです。私がその事を知るのは5年程先になります。二度目の夫と暮らす私がその事実を知り母のもとに戻ったのは母78歳、私が50歳の時でした。

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川越から狭山に向かう道の途中にその病院はありました。都内の有名病院の心療内科のA先生に診ていただく為に私の運転で母とその病院へ。結果はアルツハイマー病。発症して4年程経っていると先生からお聞きしました。其の頃のは母は、私を幼馴染と間違えたり、ご飯も作れないほどでした。仕事とはいえ、、母一人置いて、都内で暮らしたことを、大反省した私でした。幸いな事に、当時の母は暴れたり怒ったりはなかったのですが、一緒に暮らし始めて半年もしたころ、母は一人で立てなくなったり、夫の姿をみてたいそう怒ったり、色々の病状が現れてきました。

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病状が少しづつ進み、私の手に負えないほどの日もあれは、機嫌がとても良い日もありました。熱を出して近所の診療所で入院した時のことです。家に帰りたいと大暴れ。婦長さんから連れて帰って下さいと言われるようになっていました。そんな生活が一年程続き、母がどんどん変わって行きました。最初に診て下さった医師からも、もう自宅で看るのは無理かもしれないと言われたのです。母の症状にパーキンソンも出てきました。それを抑える薬を飲むとアルツハイマーは進んでしまうそうです。その頃の母、病院の待合室に腰かけると、「なんか頂戴」と可愛い声でせがみます。

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自宅で看られなくなる日が来ると言われてから入院先を探しました。そこは女医さんが経営する精神科の病院です。併設に認知症病棟がありました。しかし…今思えば母はどんなにか恐ろしかったことでしょう。口には出せない程悲しい事があったようです。一時帰宅した日母は言いました。看護婦さんは男性で、時々服を全部脱がすと言いました。考えたくはありません。其れを聞いたとき、私は一日も早く特養に母を預けたいと思いました。それから市役所には何十回も頼みました。そして3か月後、小手指にある、開設したばかりの特養に入れて貰えることになりました。

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その半年後、写真に写る母は、にこにこ笑っています。母79歳で入園、最後の一年は病院と特養と行ったり来たりでしたが、約10年お世話になりました。夫は毎日曜日には必ず私と母を見舞って呉れました。特養に暮らして10年目、母が眠るように急逝。数日前まで私と歌って遊んていたのに…。「なに歌う?」と母に聞きます。てんてん手鞠は?と聞くと、母の目が笑います。少し膨れた母の足をさすりながら私は歌います。「てんてん手鞠、てん手鞠……」何曲も二人で歌います。母は私をお母ちゃんと。細い綺麗な声が今でも耳についています。

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女の一生は夫と子供への愛から始まり、その愛に送られて逝くのかも知れません。母は生涯で私の父とその後のA氏に愛され、一人の子の私を最後まで愛し続けてくれました。病気になって色々解らなくなっても、母は一筋に私を愛し続けてくれました。母お骨はとても綺麗で、女性なのにあんなにやせてしまったのに、しっかりしたお骨でした。

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皆さま、拙い文章をたくさん読んで頂き、ありがとうございました。心から感謝申し上げます。明日からは元のブログへ戻ります。
以下は母の3回忌の頃私が書いた雑木林という詩です。

    雑木林

  車いすが揺れる
  母が笑う 仔犬も笑う
  なのに私は泣いていた。

  サァーっと一陣の風が 雑木林を抜ける
  この瞬間私は 無限大の愛に包まれていた 

  「牛乳飲む?」
   母の目に鋭い光が走る
   残った五感が反応している 
   チュチュ チュ チュ
   母が微笑む 仔犬も微笑む
   私もそっと微笑んだ

   車いすが揺れる 梢がざわめく
   雑木林に 風が亘って行った
.       
        平成16年5月記す。by.Miyako 

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都電の走る街で [小説の下書き]

猛暑のなか、街は以前の賑わいに戻りつつありました。12時半ごろ家を出た私は冷たい飲み物3本と除菌ジェルをドラックストアで買い、教室へ。着くや否や「携帯を忘れた!」と大慌て。しかしこの暑さでは取りに戻りたくない、そう思いなおし夕方まで過ごすことに。

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部屋には出口が4か所、窓が10カ所ほどありますが、生徒さんが座るテーブルに近い扉を半開きに。気温が高いので冷房も使います。机や椅子を丁寧に吹き、ドアノブや各スイッチ。通信カラオケDAMのデンモク等々丁寧に除菌シートで吹きます。飲物はビンごとお渡しします。こうした支度に30分ぐらいは係るので少し早めに入ります。帰宅時も朝と同じ内容で除菌をして帰ります。

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家では昨晩からエアコン入れました。そこで大好きなコヒーもホットで飲む事が出来るようになりました。数日前、随分やつれた自分をみてビクリ。少しづつ肉も食べる様にしようと思った次第です。さて小説の下書き、「旅ゆけば~』、ここからは私の母、その愛がテーマになります。

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美しい母でした。生まれた麹町でも、勤めた麹町郵便局でも美人で有名だったそうです。しかし家は貧しく、つんつるてんの着物を着て学校へ通ったそうです。貧しくなったのは関東大震災のせいなのです。歳の違う兄が震災の時に大きな柱の下敷きになり、それ以来病気がち、お爺ちゃん(私の祖父)の給料はお医者さんへの支払いに回り、母のところまでは回らなかったようです。女の子らし衣服を着せる余裕が無かった祖母もかわいそうです。其の頃祖父は九段郵便局に勤めていましたのだとか。

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母は生粋の江戸っ子、いわゆる小股の切れ上がったいい女!でした。昭和10年前後、長崎生まれの父と結婚、父は旧丸ビルで仕事についていたので、新婚時分の二人は銀座一丁目のアパートメントで暮らしていました。その後母の両親と同居、九段下から少し入った麹町で暮らしていました。そしてあの戦争の時代に突入。終戦の時、私は2歳ですから、戦時中の防空壕での話があります。空襲警報で逃げる一家、母が私の為に用意した薬缶から私は始終「お水、お水」と泣きながら飲んで命を繋いだそうです。
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かつてのモボ,モガだった二人はその暮らしのほとんどを戦前戦中戦後の時代に過ごすことに。そして食料の買い出し等、無理が嵩じた父は昭和22年10月、結核で亡くなりました。江戸川橋から神田川に飛びこもうと、母は何回も何回も私を負ぶって江戸川橋の橋のたもとに行ったそうです。大きくなった私は、毎年夏になると、そこから隅田川の花火見物、その帰りになると、いつも母が話して呉れたものでした。、
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33歳で子連れの未亡人になった母、父が掛けていた生命保険も、父が若い時分、佐世保の海で怪我した事を告知しなかったと、告知義務違反で、母に遺した多額の保険は、支払われなかったそうです。祖母と私を養わなければならない母、一念発起して、昼は喫茶店、夜は料亭と2足の草鞋で家族を養って呉れました。

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そんな暮らしの中ですが、私は父の望んだ通り、名門音羽幼稚園に苦しい暮らしに中、母は3年の間通わせることに。音羽通りを真直ぐ歩いてゆくと護国寺があります。その境内にある幼稚園が音羽幼稚園。母迷わず私を通わして呉れました。昭和23年の朝日新聞3月3日号、音羽幼稚園のお雛祭りの様子が紹介され、園児たちの中央に私が写っています。永い事、母は大事にしていたのですが、5年前、私の転居で、紛失してしまいました。
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父が亡くなった時には33歳だた母が36歳になり4歳の私が7歳になったころ、母の身の上に大きな転機がおと連れました。新しい家が早稲田に出来たのです。早稲田大学がある学生街の早稲田。広い庭のある家でした。周囲を板塀で囲んだ家でした。しかし私と祖母は時々、音羽の家に戻っていました。今思えばその日はある方、A氏が見える日だったのです。

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小学生になっていた私は都電を乗り継ぎ、護国寺で下車、区立青柳小学校迄通いました。10歳になった頃早稲田小学校へ転校することに。其の頃には私もA氏に紹介され沢山のお土産や、父なき子の私への思いやりを下さいました。下手なお習字を見て、筋がいいね、頑張りなさいとほほ笑んで呉れました。私たち母娘は祖母も含めて早稲田の住人になっていました。毎日美容室で髪を結い、お座敷用の高価なな着物姿で日本橋まで出勤する母。お酒のみではありませんが、お正月などは私とお酒を酌み交わすのが大好きでした。百人一首の名手ですし、オランダカルタもして遊びました。このオランダカルタは父から教えて貰ったそうです。

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母の美しさは近所でも評判でした。家の近くのお寿司屋さんから毎日特上の握りが届きます。祖母と私は浦安から来る佃煮やさんと世間話。穏やかな時間が過ぎてゆきました。裏木戸からは、離れに入れます。六畳が二つ並んで、窓は少し高い所に、丸窓です。手前の6畳には板張りの小間もありました。
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10歳までの私はA氏が大好きでした。吃驚するほどのお年玉。学校で必要なものを買いなさい!と。しかし中学生になると、私は何となく近寄りがたくなってゆきました。15歳の夏、祖母はお祝いだとお赤飯を炊きました。初潮、それは恐怖と感動の坩堝です。祖母がいたから不安は直ぐ収まったのです。其の頃、A氏は時々母と家で過ごす事もありました。箱根や湯河原に良く出かけていました。母は温泉から帰ると、もう一度私を連れてその宿に行きます。寂しい思いをさせまいと、そんな心遣い母心だったのかと、今ふと思います。しかし家では、「離れには来ちゃ駄目よ」ともいう厳しい母でした。其の頃、母は43歳、日本橋や、赤坂の料亭からご指名が毎日入り、ハイヤーが迎えに来ます。A氏が社長をしているあの会社の接待にも母が呼ばれていたようです。母の下には沢山の仲居さんが働いていました。母の詩吟、歌、踊り、そして話術は大切なお客様方にも大変な人気だったとか。

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父はいなかったけれど、母のお陰で何不自由ない生活、その生活に変化が来たのは私が結婚して暫くした頃から。母はある方からプロポーズされたのです。其の頃A氏はご子息の莫大な浪費に苦しんでいた頃です。しかし母も結婚は断り、どんどん自立した女性になって行きました。私23歳、母51歳です。この頃の母は住まいを直し下宿屋を営んでいました。早稲田大学が近いという利点もあり、人気の下宿屋さんになっていました。一時は30室ほどの部屋がいつも満員でした。そして昭和48年、東京都の区画整理が我家の運命を再び変えることになります。(つづく)



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まさか。気絶!! [小説の下書き]

梅雨に入った川越の街、情緒があってお出掛けには丁度いい、確かに昨夜はそう思っていました。しかし教室のポスターを真剣に作り始めてみると、どんどん深みにはまります。最初は軽い気持ちで遊びのつもりで作っていたのに…。気が付けば3時を回っていました。その後化粧を落としたり、着替えたりしていたら、布団に入ったころにはカーテンから薄すらあかりが。人工的なそれではなく、空が白み始めてきたのです。
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それで、完成したポスターときたら、脈絡のない、まるで悪戯書きのようなものが出来上がりました。そして今朝、あまり機能の良くないプリンターで、印刷してみると、これが不思議、わりといい感じに出来上がっていました。不思議なことに、昨晩はバックの色はブルーだったのに、印刷後は白地になっていたのです。プリンターの具合が悪いのかと、2枚ほど印刷しても同じ。もう深く考えないことにしてこの原稿で印刷して、ラミネート加工で、出来上がり。何処かに貼って貰えばそれでOKです。

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そう決まってホッとした私、気が付けばまた横になっています。あら、えっ?何故寝ていたのかしら。いくら考えても何時の間に眠ったのかを覚えていません。そこで友人宅に電話。幼馴染のAちゃんは苦笑い(多分)「あの子また眠ったのね、きっと今起きたのよ」等とお嬢ちゃんのNちゃんに話している頃です。かくかくしかじか、兎に角最近はいつの間にか眠ていて長いときは5時間も眠り続けます。

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それでは乗ってきたところで、今夜もまた拙い小説の下書き『旅ゆけば…』に暫しお付き合いをお願い致します。

二度と結婚はしない、そう思っていたのですが母のある事件をきっかけに私は再婚を決意しました。その人、夫になった人は小太りの白髪頭。どう見ても10歳ぐらいは年上に見えました。なので案外頼れると安心した私でしたが、その安堵感は数か月後には破られることになります。

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夫は北海道から帰宅した夜、倒れたのです。心筋梗塞で。幸い近所には国立病院がありました。担当のM先生、名医と言われた先生のお陰で一命はとりとめ、何とか胸をなでおろしました。1か月程の入院で帰宅した夫ですが、暫くは家でブラブラ、私は数年前、転勤した池袋支店に通っていました。その後、連れ児(夫の)を引き取たり、また転勤があったり等々慌ただしく時が流れてゆきました。

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その間、私はふと歌を習いたくなって、成増のあるレストランにその教室があることを知り、初めて習うことになりました。若い男性の先生。貴方にはテレサテンさんの歌の方が良いと、香港という歌を教えて貰いました。その店にはおばあちゃまがいらして、私を褒めてくださいました。その時の楽しさが、後に歌の道に進む原動力だったのかも知れません。

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さて、アラフォーからの結婚生活、面白くもないし、時には別れたくもなった私です。しかし仕事の方は順調で、一人でも暮らせるほど稼いでもいまいた。そんな生活が10年近く続いたころ、母の様子に異変が起きます。ご近所の奥様からの伝言。一度お医者さんに連れて行っては?私50歳、母78歳の頃です。驚いた私は夫を都内に残し、一人母のところへ戻ります。母は大喜びでした。その後に続くあの日々が想像できないほど穏やかな母と娘の日々でした。しかし…母が、そうなってしまったのは、実は数年前のある方との別れが原因だったのかも知れません。そして、其れからの日々はどう説明したらよいのか、説明できないほど辛く悲しい日々になります。(つづく)


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母娘花 [小説の下書き]

ここ3年程、5月半ばになると庭の柏葉紫陽花が咲き始めます。そして6月、一年目には一輪、2年目には二輪、そして今年3年目では何と5輪も咲きました。今年の花をよく観察してみると、私の部屋から真正面には三輪。南向きのブロック塀を向いて2輪が咲いていたのです。

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さて、私の部屋の正面の三輪、実はその花の姿が実に面白いのです。大きな母の背に小さな赤ちゃん。母の左手にはまだ幼いけれど、妹の面倒をみる女児。雨に濡れてびしょ濡れの時も、じりじりと容赦なく照る太陽の下でも、子供たちは母にぴたりと寄り添い続けている。まさにそんな姿を想像できるような形で咲いています。毎日見ているうちに、遠い日の母と私の暮らしを思い出してこの花たちがとても愛しくて…。

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それでは少し間が開いてしまいましたが、今夜も小説の下書き、『旅ゆけば…』のつづきを宜しかったらご覧ください。

35歳になった私が勤めたY社は、今思えば不動産のプロフェッショナル集団。その取引も大きな単位の物件ばかり。30代半ばの私には毎日ドキドキする事ばかり。5時になれば先輩に交じってライオンや八重洲のスタンドバーで一杯。初めて飲んだバーボンの味。生意気にもその匂いが好きだと言って、いつも飲みました。其の頃はまだカラオケの時代ではありませんでしたので、飲んでしゃべって、ほろ酔いで川越まで戻ります。そして2年の歳月が経た頃、長い研修期間が終わり、転勤が待っていました。通勤を考えて池袋支店へ。かつての三越の並びにありました。

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可もなく不可もなく私は徐々に不動産営業の楽しさに溺れていました。もう結婚はせずに自分で店を持つ事を真剣に考えていました。さらに数年が経ち私はとうとう40に手の届く頃になりました。恋をすることもなく、贅沢をすることもなく、母と暮らす川越の街へ、仕事が終わると戻り、朝は東上線で池袋へ勤めに行く。そんな平凡な日々が続きました。

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しかしその幸せは、40歳を境に大きく変わります。例によってお節介な私の癖が首を出し、職場の女性を誘惑した相手に説諭する羽目に。彼女に頼まれ二度と近寄らないように言いました。本当にお節介も度を越して居ました。その人ニコニコ笑って「申し訳なかった」と。彼女には思う人がいたので何となく一件落着。其の1年後、私はその人と結婚しました。将来あんな悲しい事が起こるとも知らずに、私は二度目の遅い花嫁になったのです。結婚には反対しなかった母ですが、入籍は拒否。私もそれでいいと思い、勤め先に近いマンションで暮らし始めました。母70歳私42歳の秋の事。(つづく)



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それは『銀座2丁目』から。 [小説の下書き]

息詰まるような60日間、薄紙を剥がすようにほんの僅かずつ新しい『生活スタイル』が始まりました。昨日月曜日から休業中だった教室を再開しました。対策としては、全てのドアノブ、机や椅子の除菌、2か所の窓を開けで風通し良く。良かった!再開できて。今は只、この言葉しか思いつきません。例え、これからの人生が短かろうと、永かろうと。もうこれでいい!これで頑張ろう~。
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帰宅後は何時ものように庭で写真。今を盛りのカシワバアジサイ、紫陽花。春の名残のペチニアも咲いています。この時間は西陽になりますが、植物たちの朝とは違う表情がとても好きです。
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今夜も少しだけ昨日の続きにお付き合いくださいね。 離婚後2年目、33歳になった私は、地元とは相性が悪いと感じていました。その理由はある職場に入社した時のことです。同僚の女性グループから目の敵にされ、「お前に家に火を付ける」グループのリーダーFの夫と名乗る男性から脅迫の電話。事実、家の外部に盗聴器が付けられていました。消防署、警察に通報しましたが、取り上げてはもらえませんでした。もう限界、私は一人家を出ようと思いました。このまま母と家に居れば母は喜びます。しかし私は、どうしても仕事がしたかったのです。自立がしたかったのです。 P6021530.yy88.1000.JPG 以前から不動産の仕事がしたいと思っていた私。離婚直後から猛勉強して、宅建試験は合格していたのです。しかし取れたからと言っても、地元には不動産関係の仕事はありませんでした。そこで慣れ親しんだ東京へ再び目が行ってしまう私。新聞の求人広告で見付けた銀行の参与という仕事、不動産ではありませんでしたが、その職場に魅力を感じての応募でした。そして其処から私の運命は再び多く動きます。
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そこは京橋と銀座2丁目の間。当時はテアトル東京があった場所になります。その裏手に私が紹介された不動産会社の本社がありました。当時の勤務していた会社先の上司にお願いして半年、やっと希望した会社の面接が叶う日です。紹介という事もあり即採用に。入社早々、熱海研修所で1週間の研修。新卒の若い男性社員が多くて吃驚した思い出があります。
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入社後の勤務先は八重洲口から5分ほど、中央通りにありました。不動産のスペシャリストが働くその会社はまぶしい程の世界でした。会社近くの丸善の屋上にはゴルフの練習場があり、私も入会する事ができました。この界隈、19、20歳の頃、専門学校に通いながらのアルバイト時代、私にとって思い出がぎっしり詰まった場所です。あのスマートで粋な江戸っ子、Tさんからプロポーズされたのもこの日本橋でした。(つづく)
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嗚呼、君知るや女の一生 [小説の下書き]

人生の最後がコロナなのかと思いながらも、料理を工夫して健康になろうと努力したり、髪を染めて鏡を見つめたり。心ここにあらず。昨晩は夜中の3時迄かかって、電子申請を済ませました。何事も経験!生きたくないとか、生き抜きたいとか、支離滅裂な日々でした。

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2か月の自粛休業。食べて寝て怒って、悲しんで…。心身がボロボロ。しかしそこまで行くと、人は案外開き直れます。私もそうです。人生で2回目の開き直り。夫を送った時もそうでした。人間らしく空を見上げるまで、丸2年の歳月が掛かりました。しかし今回は僅か2か月です。我ながら成長したものです(笑)

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さて恒例の「旅ゆけば~」つづきです。
皆さま、覚えておいででしょうか。私の趣味の社交ダンス。19歳スタートで21歳で終わりました。将来を考え、華道の教師になる為でした。家業を手伝いながらお茶の水の専門学校へ3年間、毎日通う日々でした。華道家への夢が大きく膨らんだ頃、結婚。華道教室を自宅で開きました。しかし世の中はフラワーアレンジメントへと、人々の興味が移ります。住宅様式が変わった為でした。

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大好きだった社交ダンスも結婚中は禁止でした。そして7年後30歳で一人になった私は殆ど毎日ダンス三昧。同居の母も認めてくれたのです。そんなある日、ダンンスではパートナーのBさんと桶川で待ち合わせ。初めての場所でしたので、ダンスホールがそこのあると思い、愛車を飛ばす私。赤いマツダの車で。母からのプレゼントでした。

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桶川の土手を上る手前に目をやると、事務所前でBさんが待っていました。「じゃ行こうか」と砂利道を歩きます。そして着いたのは、ホンダの飛行場でした。格納庫から出された飛行機が目の前に止っていました。今日は少し飛んでみようかと。まさか、もうびっくり仰天。空の旅はインドネシアまで一人で往復しましたが、あれはJAL。目の前の飛行機は…。後で聞いたところパイパー、チェロキーだとか。

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4人乗りですが、私はいつもBさんが操縦する隣の座席でした。雲の上に飛びながら思たことは、父の弟、長崎の叔父から貰った『ノンちゃん雲に乗る』という童話。何時か私はその人を叔父に見たてていたのかもしれません。雲の上真っ白な綿飴が一杯。夢の中を飛んでいるようでした。ベテランのBさんには何回も何回もダンスの合間にご一緒させて頂きました。車の免許を漸くとった私なのに、いつしか私も小型飛行機の免許を取ってみたい等と思うようになりました。そして数年後、仕事の関係で私は一人東京へ。(つづく)





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不惑の30代 [小説の下書き]

コロナ自粛59日目にして解除された街。それに伴って教室も準備が必要になります。除菌の薬、小型扇風機調べてみると案外掛かります。一方、川越市の事業者向け事業継続緊急支援金への手続きはまだ書類が届かず、目途も立ちません。

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毎日、生きるか、死ぬかと禅問答。生きたいのに生きていられない!Facebookのユーザーから、『77歳になるのなら、地域の民生委員にたのみなさい。人はあなたの愚痴は聞きたくありません』と。泣いた!号泣!呪った!一晩中呪いの言葉を…。目が覚めてみると闘志がわいていました。悔しいのなら見返せ!と神様が耳元で囁いた。

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  それでは今夜の『旅ゆけば~』のつづきで、少々お付き合いください。
家出した夫は新潟に行ったのです。知人夫婦の転勤先へ私は迎えに行きました。豪雪地帯の真冬、二階の入り口から入り、夫を連れて家に戻ることにしました。平凡で愛のない日々がまた続きます。翌年、夫から告げられてのは海外への転勤でした。期間は5年間、私は少し不安な気持ちになりました。

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其の頃の私は、物を深くは考える事をしなかったので、てっきり彼が一人で行くのだと、思っていたのです。しかしまさかの展開。妻同伴だと聞き、母が納得しないと思いました。出発は5月。そして初めての海外赴任へ私たちは向かいました。行く先はインドネシアのボゴール、到着まではかなり懸って、シンガポールでは、ロビーで休憩。やっと着いたのはジャカルタ空港、空からの海は濁った茶赤のような色でした。異国で暮らす自分を何だか、物語の主人公になったような不思議な感じでした。しかし、それから1ヶ月程で、私は一人川越にある母の待つ病院へと向かうことになりました。


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インドネシアから持ってきたジャワサラサ。高級品です。ジャカルタのデパートで、日本円にして1万円。当時の運転士さんの月給は6,000ルピアでした。レイトはわからないのですが、現地のデパートでも高級品でした。

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そのジャワサラサで作ったロングのワンピースを着て街を歩く私、川越の人々は日本人に見えなかったそうです。その後、大好きだった社交ダンスを川越の街で再開。今はない銀座通りの用品屋さん、その2階にはダンス教習所。明るいダンススタジオには、初老の先生と若い女性が一人。

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10代から踊っていた私の再挑戦。初老の先生は抜群の腕で、かつてない程、ダンスの深さ妙味を知ることが出来ました。暫くして、先生が選んだパートナーはすこし怖い顔した工場の社長さん。日産のエンジニアだったとか。東京生まれの50歳。そしてある彼の趣味に吃驚した私でした。(つづく)
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