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そこは交差点 [小説の下書き]

暑い夜です。さっき迄雷鳴が轟いていたのですが、今はいつも通り静寂の夜です。静か過ぎるのは嫌なのでテレビが音楽を聴くかの何れかを選んで私の夜は過ぎてゆきます。今夜は小腹が空いたので鯛雑炊。と言っても市販のちょっと高級な鯛ちゃづけの素です。冷凍してあるご飯をお雑炊にして食べました。

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昼間、随分歌ったので気分は最高。生徒のTさん、チャーミングな声の持ち主です。そして兎に角新しい歌を覚えるのが早いのです。今日は2人だけの発表会を想定して2時間余り歌いました。私は全部を歌わず手伝いのみでした(笑)いい汗かいて上機嫌の2人です。マイク無し、2か所の窓を開けて歌います。5曲歌っては休んで、冷茶にチョコレート。これの繰り返しです。今の二人が夢中で覚えているのが、大石まどかさんの深い川。涙が零れる程、いい歌です。Tさんと私、趣味が合うはず。Tさんは豊島区池袋生まれ、私は文京区竹島町生まれで同じ時代を生きてきました。

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それでは今夜も『旅ゆけば~』のつづき。どうぞ宜しくお願い致します。
昭和48年、新宿区早稲田の一角は区画整理が行われました。いま、Googleで見ると確かに広い範囲が大きな通りになっています。私たちの家が建つ筈だった場所には沢山のビルが建っていました。其の区画整理では減歩率高く、母の家の土地は三分の1程減ってしまいます。換地先と元の家は数メートルしか離れていませんが、母が嫌ったペンシルビル向きの場所でした。住んでいた家の場所、そこは、交差点の真中になったのです。悩んだ末母は移転を考えました。

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あの母が、生粋の江戸っ子が、どうして何故と考えましたが、母の決意は固く、当時私の嫁ぎ先、川越で家を見つけることに。母が来る、嬉しい。しかし母が可哀そうでなりませんでした。其の1年後、川越に母の家が建ちました。静かな住宅地に。目の前の公園がとても気に行ったようです。

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母がそこで済むようになってからも、10歳年上の夫は相変わらず仕事にテニスの日々。しかし私は殆ど母の家で暮らすことになりました。其の頃、A氏も時々訪ねてくれました。そんな平和な暮らしが続いた母に辛い知らせが。引っ越してから数年経った頃A氏が入院したのです。ある日母は私に一緒に行って欲しいと、聞いたたこともない程の弱々しい声で言うのです。

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そこは何という病院だった記憶はないのですが、田園調布で暮らしていたA氏には不似合な質素な病院でした。部屋番号を聞いていた私に「貴女だけ会っていらしゃい、私はここで待て居るから」と母が。A氏は私の顔を見て嬉しそうに、「お母さんは?」と聞きました。玄関に居ます。そう私が言うと「そう」とほほ笑んで、後は無言でした。その時、上品な髪の白い女性が戻って来ました。その日以来、A氏が川越を訪ずれる事はありませんでした。

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そしてに5年ほどの歳月が流れ、母は2階4室に1階2室のアパートからの収入で独り穏やかに暮らす日々が続いていました、しかし、母はハイヤーを呼んで、早稲田の美容室迄良く通ていたそうです。後に運転手さんに教えて貰いました。A氏も私も母から離れてしまった其の頃、母の体には徐々にある病気が忍び寄っていたのです。私がその事を知るのは5年程先になります。二度目の夫と暮らす私がその事実を知り母のもとに戻ったのは母78歳、私が50歳の時でした。

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川越から狭山に向かう道の途中にその病院はありました。都内の有名病院の心療内科のA先生に診ていただく為に私の運転で母とその病院へ。結果はアルツハイマー病。発症して4年程経っていると先生からお聞きしました。其の頃のは母は、私を幼馴染と間違えたり、ご飯も作れないほどでした。仕事とはいえ、、母一人置いて、都内で暮らしたことを、大反省した私でした。幸いな事に、当時の母は暴れたり怒ったりはなかったのですが、一緒に暮らし始めて半年もしたころ、母は一人で立てなくなったり、夫の姿をみてたいそう怒ったり、色々の病状が現れてきました。

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病状が少しづつ進み、私の手に負えないほどの日もあれは、機嫌がとても良い日もありました。熱を出して近所の診療所で入院した時のことです。家に帰りたいと大暴れ。婦長さんから連れて帰って下さいと言われるようになっていました。そんな生活が一年程続き、母がどんどん変わって行きました。最初に診て下さった医師からも、もう自宅で看るのは無理かもしれないと言われたのです。母の症状にパーキンソンも出てきました。それを抑える薬を飲むとアルツハイマーは進んでしまうそうです。その頃の母、病院の待合室に腰かけると、「なんか頂戴」と可愛い声でせがみます。

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自宅で看られなくなる日が来ると言われてから入院先を探しました。そこは女医さんが経営する精神科の病院です。併設に認知症病棟がありました。しかし…今思えば母はどんなにか恐ろしかったことでしょう。口には出せない程悲しい事があったようです。一時帰宅した日母は言いました。看護婦さんは男性で、時々服を全部脱がすと言いました。考えたくはありません。其れを聞いたとき、私は一日も早く特養に母を預けたいと思いました。それから市役所には何十回も頼みました。そして3か月後、小手指にある、開設したばかりの特養に入れて貰えることになりました。

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その半年後、写真に写る母は、にこにこ笑っています。母79歳で入園、最後の一年は病院と特養と行ったり来たりでしたが、約10年お世話になりました。夫は毎日曜日には必ず私と母を見舞って呉れました。特養に暮らして10年目、母が眠るように急逝。数日前まで私と歌って遊んていたのに…。「なに歌う?」と母に聞きます。てんてん手鞠は?と聞くと、母の目が笑います。少し膨れた母の足をさすりながら私は歌います。「てんてん手鞠、てん手鞠……」何曲も二人で歌います。母は私をお母ちゃんと。細い綺麗な声が今でも耳についています。

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女の一生は夫と子供への愛から始まり、その愛に送られて逝くのかも知れません。母は生涯で私の父とその後のA氏に愛され、一人の子の私を最後まで愛し続けてくれました。病気になって色々解らなくなっても、母は一筋に私を愛し続けてくれました。母お骨はとても綺麗で、女性なのにあんなにやせてしまったのに、しっかりしたお骨でした。

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皆さま、拙い文章をたくさん読んで頂き、ありがとうございました。心から感謝申し上げます。明日からは元のブログへ戻ります。
以下は母の3回忌の頃私が書いた雑木林という詩です。

    雑木林

  車いすが揺れる
  母が笑う 仔犬も笑う
  なのに私は泣いていた。

  サァーっと一陣の風が 雑木林を抜ける
  この瞬間私は 無限大の愛に包まれていた 

  「牛乳飲む?」
   母の目に鋭い光が走る
   残った五感が反応している 
   チュチュ チュ チュ
   母が微笑む 仔犬も微笑む
   私もそっと微笑んだ

   車いすが揺れる 梢がざわめく
   雑木林に 風が亘って行った
.       
        平成16年5月記す。by.Miyako 

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