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二番街の秋 [黄昏は麗しく]

2021/08/25、私は78歳を迎えました。とても嬉しかったです。ここ数カ月の壮絶な戦いとも、此れでさようなら出来る。そう思ったら羽が生えて飛んでゆきたい気分でした。その10日前には、美容院へ行き、16年も切らなかった髪をバッサリ切ってもらい、髪を染め、パーマネントも。白い髪の混じり始めた長い髪ともこれでさようなら。
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さて、未練な昔話になりますが、歌のレッスン中に、束ねてあった長い髪を解こうとした私へ、「解くな!」と声が飛んで来ました。ただそれだけの思い出なのですが、妙に嬉しく、妙に悲しく、今も少しだけ寂しいです。その後も、柔らかく細いわたし髪は、づっと切らないまま伸ばしてまいりました。しかし歳月を経て、喜寿も過ぎた私はふと思ったのです。最期の日になって、棺に入るときは短い方が見た目が良いのではと。

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もうこの長い髪を風になびかせることもなく、綺麗に結い上げる事もなく、手入のしやすいショートカットにしようと決心したわけです。最近できた美容院は家から近い二番街にありました。家の裏手の住宅街ですが、何故か二番街と命名されています。

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最近は、二番街に小さな商店もポツリポツリと。美容院の隣にはライブハウスもあるようです。観光の町の入口にあるこの商店街、その賑わいは、私が転入した2015.08.27と比べると格段の相違です。

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美容院を出てから、知人が勤める宝石のお店を覗いてみました。指輪を始め、イヤリング、ネックレスなどのコレクションも随分あった私ですが、手元に残ったのは、母が父から贈られた結婚指輪だけになりました。結局、その日に私が買ったのは、普段づかいのネックレスが一本。デザインが気に入って購入することに。

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駅から3分ほどの私の住まい。二番街と向き合った格好で建っている古いマンションです。その一階に私の部屋があります。隣室に住む女性が、私に七度も傷を負わせた本人です。しかし会社全体で守られている彼女は、数日前にもまた、私を追い回しました。怪我はありませんでしたが、その後マンション付近で不審な男性がうろつき、不気味な思いをしています。

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私がこの街に転入した2015.08.26の頃、彼女が働く会社の本社は、この二番街にありました。商店街を10歩ほど歩くと、彼女の雇用先の会社になります。建物の2階に事務所がありました。私もその会社に自宅を売り、亡夫が残したままだった、多額の借金を返済しました。その後、会社のマンションへ入居することに。二番街の事務所で渡された豪華なキーは赤い根付で結ばれていました。あれから6年、事務所は移転し、隣室の彼女は何時しか新しい事務所に頻繁に出入りしています。

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体中に彼女の暴力を受けたにも関わらず、警察からの助けも得られない私は今、此処を去るべきだと思い、一か月ほど、役所の関係部署へ頻繁に行ったり、電話したりと。自立できるよう行動をしてきました。しかし福祉からの支援も殆どなく、結局は一歩たりとも話は進みません。命の危険を感じて暮らしています。今、二番街のざわめきの中にあるのは権力と欲望の中でうごめく人、人の波。遠い昔、ほろ苦い想いを捨てて来たこの街、私の最後の夢があっけなく消えていった二番街の初秋です。



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流れる [回想]

我が人生を思う時、やっぱり、一筋縄では行かないのだと、しみじみ思います。自分ではほぼ覚えていないような幼い時分から今日まで、多かれ少なかれ、山あり谷あり。振り返ってみれば、4歳で父親が他界。そのためには母は仕事に付き、祖母と2人だけの寂しい暮らしでした。当時の事で覚えているのは、音羽幼稚園に通うあの道、秋が深くなると、銀杏の並木になります。

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4歳から3年間通った音羽幼稚園は、父の希望でした。音羽幼稚園は、護国寺のお隣にあり、同じ敷地に音羽ゆりかご会がありました。以前も書きましたが、幼稚園の帰りには、私は一面の紅葉に、一人戯れて時間を過ごしていたのですが、もしかしたら、音羽ゆりかご会から聴こえる歌声に聞き入っていたのかも知れません。

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そして小学校へ入学の時期を迎えました。青柳小学校は当時、日大豊山と大通りを隔てて向かい側の位置にありました。そうそう面白いエピソードが。入学式の日、母に連れられて門をくぐった私ですが、名簿にその名前が無かったのです。随分待たされた後に、漸くわかった事は、学校側は、私を男の子だと勘違いして、女子の名簿には記載されていませんでした。

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まさかと母も驚いたとおもいますが、間違いは,郁と都の取違。郁なら男の子、都なら女の子。そのように思われていたそうです。ずいぶん待って、漸く入学した青柳小学校。まるで幼稚園児ほどの小ぶりな私は席も一番前。2年生になるころ,一家は早稲田に転居。私は小さな体で、都電で通学することに。満員電車ですので、後部ドアから乗り、車掌さんが仕切りの中に入れてくれました。

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3年生になった私は早稲田小学校へ転校。毎朝、同級生が迎えに来てくれました。しかし漸く慣れた頃、今度は家から近い、鶴巻小学校にまた転校。鶴巻小学校は大隈講堂のすぐそばにありました。当時の鶴巻小学校では、建物の一部には、戦争で焼け出された方々の住まいもありました。転校したての私たちは、運動場の砂利をみんなで運びましました。

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そして、6年生まで担任して下さった今井先生。小さな私をいつも気にして下さいましたが、一つだけ許して頂けなかったことも。それは進学する中学を決める頃でした。私は共立を希望しましたが、先生は駄目だと。当時の私の成績評価は高かったので、どうしても受験させてほしいと頼みましたが無理でした。その頃、父がいない私には受験できなかった様でした。その後、別の女学校へ行くことが決まり、伝通院にある淑徳学園へ入学。

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私が高校2年生の夏の事、当時の私は勉学も学園生活も満喫して充実した日々を過ごしていました。ところがまさかの大事件に巻き込まれ、私の人生は此処で大きく変わります。その後の数年。私は家出をしたり、祖母のなき後の母を、大きく拒否しだしたのです。まだ大人では無い少女には、眩しいほどの母の暮らしを受け入れられない時期だったのです。

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あれから60年の歳月が流れ、私は今、母の遺影が唯一の救いです。大きな母の慈悲を受け入れることが出来なかった未熟だった自分、今頃反省しています。夫の残した借金で、母が私の為に残した家を失い、いままたい現在の住まいも居られそうにありません。隣室の女性から暴力を受けた私。あの日の恐怖、その後の体調不良。私はこれからもまた、流れる水のように、見知らぬ何処かへ流れてゆくのでしょうか?留まれない、何がこうさせるのか、一言で運命といいきるには、あまりにも残酷な運命です。
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人生プラン最終章 [黄昏は麗しく]

朝早くからの電話。何事かと思ったら、歌ともだちYさんからの電話。90歳を過ぎても元気はつらつのYさん「考えてみたのだが…」と。要約すると今の儘では危険だから、転居した方が良いのではと。私も同様の見解です。確かに、この3カ月で5回以上に及ぶ、隣室女性からの暴力。これはもう限界です。喧嘩などしてはいないのに。何時も不意に何処から出てきて暴力的な行為の数々。本人は私に虐められていると、上司の前で泣いて訴えてるそうです。

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そんな日々ですから、私は仕事も手に付かず、家の出入りはおろか、庭に出て洗濯物を干すことも、綺麗に咲いた花達を撮ることも出来なくなりました。傷の殆どは、打撲でしたが、6月24日に受けた右手首への暴行は、相当痛かった事と、場所が急所を突いているので、かなり訝しいと思いました。手首の血管から出血させる事を狙っての行為ではと、後から聞いてぞーっとしました。この行為は、一般人が日常で使う喧嘩の手口にはとうてい思えません。

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寝苦し夜が明けた今朝の事、早朝なので安心して庭に出ました。紫陽花のあたりで隣室の縁側が視野にはいります。それを観たとき、私は一瞬凍り付きました。介護用、移動用とでもいうのでしょうか便器です。私も母の看病に使っていますしたが、その便器が布に包まれて大きなごみ箱のとなりに置いてあります。誰が使うのかは分かりませんが、お隣は一人暮らしの筈。介護で使っているのではと。若しかしたら、そのストレスが私への暴力行為だったのか。

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私も認知症初期段階での母を介護ことがあります。もう30年も前の話ですが、当時は認知症への知識がほとんどなく、とても大変でした。しかしその時間があったからこそ、今の私が存在している気がします。もし彼女が、介護の大変さに精神的に動揺していたとしても、今は地域に福祉の手が厚いと聞いています。何も私。への暴力を今の様に頻繁に過激にすることは無いように、思えますがすが。

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そうであったのなら、彼女の大変さ、苦しさもわかりますが、しかし、関係のない、他人の私に暴力という図式は、完全な甘えの構造です。68歳にもなって、自分の不満を、関係のない他人を傷つける行為
は、同情は、できるものではありません。高齢化時代に必ず起こる介護の問題、そのためには最後まで
自立できる自分を作るしかないのでしょうか。

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まさかの喜寿を迎えたこの年2020年8月から早1年が経ちます。なんという壮絶な一年間、コロナの恐怖は経済的恐怖へと。おまけに隣人からの暴力迄ついてきました。人生最大の危機です。しかし行くも去るも…と言われるように、すべてが覚悟の世の中。そんな日々で感じる孤独感はむしろ清々しくさえ感じます。もう一度、もう一度無から始めて見たいこの人生。

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さて私の人生プランのこの次は….そういえば、先日から素晴らしい歌をレッスンしています。『風まかせ』という歌です。瀬月内寂聴先生の作詞による素晴らしい曲です。何処からか、恩師I先生のピアノの音が聴こえて来るようです。心に沁みる音が。

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今後どうするのか、福祉に委ねるのか、自分で道を開くのか、いいえ開けるのか。どちらのしても前途が明るいとは思えません。しかし『歌』という力をフル稼働させることが出来れば、第三の黄昏王国を築けるかもしれませんね。今は、自分の力を信じ、自分を大切に生きて往く以外に、私の人生プランはありません。

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