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真夜中の呪文 [小説の下書き]

コロナによる自粛が解かれることに。しかし私の心は暗い。3月28日に自粛体制になってから、我が家の経済は完全にストップ。僅かな年金で暮らしていた私。しかしいよいよ年金も底につき、仕方なしに、市の中小企業向けの支援金である継続支援金の申請をと考え、担当者と電話。

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最初は断わられましたが、再度、別の条件ではと聞いたところ、若干の光が見えてきました。しかし承諾は書類の送付、調査の上なので、どちらにしても6月中旬は過ぎている筈。街には何故か不穏の予感が。そこで昔教わったこれ!「かんながらはまちはえませ」と私は呪文を唱えました。

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 それでは、今日も旅ゆけば.3を続けさせて頂きます。
九州から帰った後、母に相談した私。母と夫の話し合いがあったらしく、夫は少し優しくなりました。その後2年程は可もなく不可もなく、わたしはお茶の水の専門学校を卒業して家で華道教室の日々。

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そしてまた数年が過ぎたころ、母から、もう大丈夫だから、川越の夫の家に戻るようにと。夫も喜び、家を新築、こうして2人で暮らすことに。ところが此処でまた遠い日の疑問が、私の心を悩ませる事が起こり始めます。

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皆様も覚えておられるでしょうか、4年前の新婚旅行の事。初夜に戻ってこなかった夫の事。あの時、夫と一緒だったカメラマンさんの事。そうなのです。其のカメラマンさんが、新婚家庭にちょくちょく来るようになったのです。お茶を持って2階に上がると、ドアが中から閉まっていることも。訝しく思う事もありましたが、意味が解らず私の20代の日々が過ぎてゆきました。

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その変な関係は私たちがインドネシアに行く日まで続きました。其の頃、東京の母は、川越に移転。私は昼間は殆ど母の家で暮らしました。夫40歳、私、30歳の春を迎えました。私は子供のいない寂しさにマルチーズのコリちゃんを飼っていました。

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ある日、夫の母から子供のできないのは、あなたの体が弱いからではと言われ、信濃町の慶応病院へ不妊診断へ。結果は夫に原因がありました。精子がほとんど無いとの事でした。離婚を考えた私でしたが、夫は突然家出をしてしまいました。(つづく) いよいよインドネシアへの道がが見えてきました。続きは、また明日に。おやすみなさい。
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美女はハイカラがお好き [小説の下書き]

今晩わ。川越に着物の会があるのをご存じですか。そのうえ着物の日までが制定されました。町ぐるみです。しかし子供時分から赤いぽっくりで肩上げした着物を着ていた私。今風の川越着物スタイルには何となく違和感を感じています。しかし町ぐるみ喜んでいるのなら、それでいいと思うことに。

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着物に、ブーツ。着物に、スニーカ、ベレー帽。着物に徳利のセイター。等々それが流行だとか。ところ変わらば品変わる。依怙地な私はやっぱり古典的な着物でなければ嫌です。わか街はこうして西欧かぶれっぽい着物姿の美男美女で、今は無理ですが、コロナ収束のあとはそんな姿がきっと見れるのかと楽しみです。

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それでは気分を変えて旅ゆけば…のつづきを…今回は題して新婚旅行の怪
あれは初秋の頃だったと思います。型通り結婚式を挙げた私たちは新婚旅行に行くことに。行く先は九州でした。その理由は博多には共通の知人が。長崎は私の父の故郷。宮崎は新婚のメッカ、それで決まりました。

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その旅行のメンバーの多さに吃驚した私。二人のつもりが夫の案で、私の母、夫の母、共通の友人(博多で合流)という事に決まりました。旅は東京駅から。列車です。そこへ一人の男性が現れました。カメラマンで付いてゆくという事でした。総勢5名、博多でプラス2名という事になりました。

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博多で合流した共通の友人夫婦と市内で美味しい魚料理を食べ、九重山を越えて宮崎へ。高速の窓からは放牧された馬たちの姿が望められて、楽しい旅行です。その後、宮崎を経由して鹿児島へ。

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鹿児島に着いた私と母は砂の温泉で寛ぎ、その夜が私と夫だけの夜になる筈でした。しかしここからがまるでパズル。その夜銘々の部屋に戻った一行。母は夫の母と。カメラマンさんは別お部屋で。の筈でした。しかしその夜、夫は私という新妻を一人置いたまま、朝まで戻りませんでした。

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何故、何故? 翌朝戻った夫が言うには、昨晩、砂浜でカメラマンさんと夕涼みしていたら,自殺者がでてその女性を二人で助け、心配なので朝まで付き合っていたと。まるで意味不明な説明。可笑しい、変だ!しかし私たちはそのまま長崎で一泊して東京へ帰りました。母に鹿児島の夜のことを打ち明けたのはそこから、暫くたってからでした。

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皆さまは如何お考えですか? 夫の訝しい行動。何かがありそうですね。この続きはまた明日。今夜はこれで、おやすみなさい。
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鳴かぬなら…。 [小説の下書き]

鳴かせてみしょうホトトギス。若い頃の私はこんな娘でした。女だてらに恋を楽しむなんて…。しかし生涯を通してみれば、素晴らしい恋ばかり。先だってのことです。わたしの恋愛論を聞いた若い人が、70や80になって恋の話なんてみっともないって。私一人で笑ってしまいました。

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確かに母が50歳の時、22歳の私は母の恋愛を認められず、自棄になって家出さえしました。しかし今思えば、その世代(50代)の女性は人生で一番美しいかもしれないと。気持ち的にも開放され、心身も充実している気がします。その後はじまる長いシニア~シルバーへの道。私はこの道を歩き始めた今、思っていたより険しい道だと知りました。

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さて、前回の『旅ゆけば~のつづき』を少々。東京へ戻った私、母が入院している病院へ。担当の医師からは「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」と。しかし退院した母からは、「向こうに行くのなら、親子の縁を切ってから行きなさい!」と。

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夫のもとへ戻ろうか、母と暮らそうか、私が悩んだ原因の一つに、あの不思議な経験がありました。話を少し戻します。インドネシアから帰国後、夫から頼まれた書類を持って、新宿へ向かった私。そこは夫が今回の仕事をするために窓口となっている団体がありました。

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夫に言われた通り、担当のFさんを訪ね、お土産の菓子折と書類を渡しました。Fさんは食事をと私を誘いましたが、それは食事ではありませんでした。今思えばうかつな私です。深い悲しみの中、一つの考えが。これが主人の言っていた『お土産の中身』だったのか?

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悪夢、しかしその後 またも思いもよらない夫からの仕打ち。ある日、母のところに来た一通の手紙。夫の上司からのものでした。インドネシアに夫を置き去りにしたのは、私が日本に恋人がいるからだと書いてありました。ばかばかしいとさえ思える内容。離婚を正当化した手紙でした。当時の私は31歳、夫は42歳でした。

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あれから45年の歳月が流れています。今はコロナの恐怖におびえる日々ですが。しかし思えば、夫との結婚生活は、不思議なことの連続でした。そして更に怖い話を思い出しました。

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それは結婚間もない夏のことです。登山が好きだった彼から山登りに行こうと誘われ、出かけました。山の名は憶えていないのですが、尾根のようなところを歩いていた気がします。私たち二人だけで、一列に歩きました。夫は登山靴。私は軽い運動靴。電車、バスを乗り継いで行った気がします。

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どの位あるいたのでしょうか、気が付けば前が見えないほどの霧がかかってきました。こわごわ目を凝らして足元をみると、なんと!そこは人が2列では歩けないほどの山道。右も左も傾斜しています。「○○さん~」と大声で泣きわめきました。両手を前に出し、先方を歩いている筈の夫の姿を探す私。
 
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暫くして「何しているの、ここだよ」。少し視界が開けた向こうに夫の顔が! しかし私の心は、嬉しいより釈然としない思いでした。『あの時と同じだ』と。あの時とは同年5月に行った新婚旅行の夜のことです。考えられないようなハプニングだったと、夫が言った新婚旅行。

つづきは次回で。次回は福岡、長崎。宮崎、鹿児島と総勢6人で行った新婚旅行の出来事からスタートします。
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