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小江戸の春はまだ遠い [シンガー]

暫くぶりの投稿になりました。昨日漸く、ワクチン接種のお知らせが届きました。前回同様にご近所の医院で受けたいので、早速連絡。2月末頃、受けられそうです。立春まじかになった今日この頃ですが、三寒四温の春雨までは,まだ遠いかもしれませんね。そんな中、78歳5ヶ月になった私は、体中の痛みに耐えながら、忙しく動いています。勿論,そのほとんどは仕事ですが、時間をみながら今後の棲家を探しに奔走しています。


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何故この歳になってまで「転居」などをするのか、自分でも些か首をかしげることもあります。が、しかしこのまま、あの恐ろしい暴力の餌食にはなりたくない!そう思ったからです。それと、環境を変える事で、創作への意欲も高まるかしら…、等と言う考えもあります。本当に、人生は思うほど長くはありませんね。時が早いのか、私がのろまなのか。どちらにしても60代には歌手にも作詞家にも挑戦し、願いも叶い創作へのパワーも高まっていたのですが、70代も後半になった私が、予想もしなかった暴力に出会う羽目になったのは何故だったのでしょうか。


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2021.04のある日、転入してきた隣室の女性に「猫ちゃんを虐めないで!」と私。その小さな事件が8回にも及ぶ暴行に繋がり、そして私は終の棲家として7年間前から住んで居たこの住まいを自ら出る羽目に。勿論去る事への拘りや悲しみは、筆舌に尽くせない程、あります。しかし今は言葉に出すことが出来ません。此処まで私をも守って下さったご厚情に対して、感謝!の一文字ですべてを言い尽くせるわけもありません。只々、熱い涙が総てを物語っている私です。今後の暮らしは覚悟の上ですが、全てが軌道に乗るまでには数年の歳月が必要かも知れないと、覚悟はしています。


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今後のスケジュールは現在とあまり変わりませんので、生徒様にもご迷惑を掛けずに過ごせると思います。只、私の住む家がなかなか決められず、どうしたものかと思案をしています。夫が無くなって丁度10年になりました。此処でもう一度住まいを移転することは、本来であれば避けたかったのですが、万が一、昨年同様の暴力を振るわれ、体が今以上衰弱してしまう事を恐れた私の、独りよがりの転居です。その費用もかなり掛かることが分かってもなんとかして転居はしたいのです。


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2015年8月に転入してから6年5ヶ月、沢山の思い出と沢山の哀しみ。生まれて初めて誰も知らない街で暮らす事になった私でしたが、何時しか家族のように暖かい環境で暮らさせて頂きました。今回の事の原因が何処にあったのか、随分考えましたが分かりませんでした。しかし何時の日か、今回の哀しみの中から何かが見えてくるかもしれませんね。小江戸川越、春まだ浅いこの街は今でも私の『第2の故郷』※尚、お教室は今まで通りに営業致します。

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古地図に馳せる想い [シンガー]

私が初めて川越を訪れたのは13歳の時です。文京区にある女学校に入学した私は、教室で隣の席に座ったINさんと仲良しになり、彼女の誘いで、西武池袋線で、川越をおとづれました。13歳の私は新宿区早稲田鶴巻町に祖母、母と暮らしていました。初めておとづれた川越の街を彼女の案内で歩きましたが、一番印象に残ったのは彼女が卒業した小学校。その思い出は、二人でブランコの下で撮った写真です。そして2回目の訪問は、池坊お茶の水学院生だった23歳の時。


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当時私の家は下宿屋さんを。早稲田大学生が多い下宿屋でした。ある夏、大勢の学生さんの一人、Tさんの友人、Yさんに誘われて、川越市霞が関、角栄団地にある家で、夏の一日を過ごしました。そして10月、私達は大隈会館で、挙式を上げました。新居は川越市霞が関になりました。生まれ故郷の東京を離れた私は、数カ月で里帰り。心配した母は、二人で暮らせるように母の家の裏手に小さな家を建てました。その後しばらくは川越には行かなかった私でしたが、結婚7年目に夫の意向もあり、霞が関の家を建て直して、二人で住むことに。私、30歳まで後わずかになった頃です。


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その後、母も東京の家を売却、川越市霞が関に転居しました。当時の我が家と母の住まいは10分ほどで行き来ができ、母はご満悦でした。家の前の公園には八重桜があり、母はとても喜んでその花を愛ででいました。そして30年が過ぎ、私と母に起こった様々な思い出と共には母89歳で他界。私は再婚して母の家を守り続けました。


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けれど運命は残酷、母の他界から10年後、今度は夫が逝去。私は一人になってしまいました。その頃の私は新人の歌手として地元はもとより、神奈川や東京で歌っていました。夫の生きていた時はTVにも出たりと、人生で一番華やかな時期を過ごしていました。ところが夫亡きあとの私に、恐ろしい事件が次々。夫が無くなって2年近くになった2014年、いろいろな出会いがあって、歌謡教室のスタート、翌年は自宅の転居と。私は現在の住まいに暮らす事に。それから6年が経ち、私の身に思いもしなかった事件がおこりました。それまでの私は、自分の人生とそれを導いてくださった周囲の方々に感謝をしていたつもりでした。もっともっと頑張って、頑張って! その願いだけで77歳を迎えた頃です。そしてあの恐ろしい、2021年4月がきました。


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4月になって長い間空き家だった、隣室にA子さんが入居。その数日後、彼女からの暴力がスタート。最初は猫を蹴り飛ばす彼女へ、「止めて!可哀そうじゃない!」この言葉が私の運命をぐいぐいとひぱりました。暴力は4月から夏ごろまでで、通算8回。その後もいろいろありました。私は暴力の度に警察迄タクシーで駆け込みました。然し証拠がないと、最初は話も聞いて頂けませんでしたが、度重なる暴力に、時としては刑事さんやその他の方が耳を傾けて下さいました。暴力で受けた頭や、わき腹、手首、胸、身体の痛みがあったものの、コロナ禍の下で、治療を受けたくとも状況的には病院へ行くチャンスがない私でした。



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そして、年が明け2022年になりました。静なお正月を迎え、去年の悪夢が少しづつ治まったかのように思えましたが、しかし、何もない筈はありません。クレアモールパークで、マンションの玄関で、A子の恐ろしい顔をみると、私は身震いを覚え、体が硬直するような感じが。もう駄目!ここを離れよう~と。しかし少しばかりの年金では引っ越しなどは到底出来ません。ここ10日程川越のあちこちを歩き回り、転居の可能性を考えてきました。以前購入した「川越城下重ね地図」を眺めて、遠い日の川越で暮らした人々へ想い馳せて、今の自分を考えてみました。


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この伝統の街、私の第二の故郷。しかし、今。ここにはもう私の住む家が無い! 逃げよう~、「いいえ、逃げたは駄目!」。母なら、今の私にどういうのでしょうか? 庭の柏葉紫陽花も、平戸つつじも、私と一緒に、此処での暮らしを謳歌しましたね。さよなら第二の故郷と、私は未だ言いたくないのです。「川越城下かさね地図」、もう一度この古の地図の町々を歩いてみたい!熱い血が私の中に今も流れています。


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春待つ女 [シンガー]

またまた変な事件が起こりました。それは12月31日から始まりました。我が家では、大晦日には毎年忘れずにする事があります。それは、『一陽来復』をまつる事です。その年の恵方に向かってお札を張り替えおまつりします。昔は母と私が、牛込の穴八幡宮までお札を頂きに行きました。今は幼馴染が送って下さいます。


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元旦の朝、一人で食べるお雑煮は何故かとても虚しいものでした。その悲しみはもう6日も続いています。3日前の事です。夕暮れ時でしたが、仕方なく爪切りを買いに出かけた私、案の定、あの女性に出会いました。彼女はいつもの公園の角で、仲間と一緒で、珍しく大声で燥いでいました。真っ赤なコートを着て上機嫌。


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私は大通りまで出で買い物したいので、仕方なく公園に沿って歩きました。彼女は一人の男性と一緒で私をじっと眺めていました。その時、私は急に身震いを覚えました。彼女の恐ろしい手首への暴行からはもう6カ月たっていしたが、この寒さでっ始終痛みます。そしてマンション玄関で待ち構えていた彼女から受けた、手首への暴力、あの心臓が止まるような痛さ思い出され、激しい怒りを覚えました。彼女がした暴力行為は手首を入れて8回、言葉もありません。警察へはいくら届けても、彼女は暴力行為は認めず、私から虐められたと言って泣きながら上司に訴えているそうです。


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彼女に出会ったその深夜、私は急に体が震え、彼女が仲間を連れて来て私は襲われるような気そんな気がしきりにしました。庭に出て彼女の部屋を眺めました。その時カーテンが動いたので、私は恐ろしくなって110へ。本当に今度こそ殺される、そう思って「外に出たいので、此処に来て欲しい」とお巡りさんに懇願。10分ほどして2人のお巡りさんが。「今夜は怖くて家に居られないので、ホテルに泊まります。家を出る瞬間、また彼女に襲われそうなので、外へ出る私をフォローして下さい」と懇願しました。。確かに6/24に彼女から受けた手首の暴行。言葉に表せない程ひどい痛みでした。


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そして2件のホテルを廻りましたが断られ、仕方がなく家の近くのカラオケボックスへ入った私。お正月なので、お店は夜中でも大勢のお客さん。最初は、死人のような顔で入館した私ですが、楽しそうな歌声に「そうか、歌ってみようかな」等と、実に不思議ですが歌い始めました。使い慣れないDAMですが、音も良くマイク無で充分楽しめました。人は、歌う事で無限のパワーを引き出す気がします。ここ一カ月ほど殆ど歌わなかった私が、歌い続けるのですもの。胸が痛くて殆も声が出ない筈の私が…昔のように歌いました。そして時計は午前5時に。



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外に出てみると、昼間ほどではありませんが、思った以上の人波です。家までは5分程で戻れるのですが、戻るのがまだ少し怖い私。一度、西武線の方へ歩き、飲み物を買って我が家に戻りました。それにしても時々起こる気分の悪さと、海の底に居るような静寂感。私の命の灯が消えるようにも思えたり。少し前までは暴力に負けづ頑張ろう~。2022年からは前向きにどんどんトライしてみよう~。そんな夢を描いていたのですが、彼女の暴力を肯定する人々に囲まれた今、心は砕けてゆきます。   再びの 春に焦がれる 小江戸の彩女  Miyako

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