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万年筆よ走れ! [黄昏は麗しく]

父の形見の万年筆を引っ越しで紛失、その後は100円ボールペンを愛用していた私ですが、先日パーカーのボールペン購入。この機会に少し私自身と社会とのつながりを考えてみたくなりました。朝の役所。電話の声の主は30代ぐらいの男性だと思われます。「よかった!きっと言いたい事の趣旨、分かって下さった!」電話の後、私はこう思いました。

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この川越に住んで50年、母にも夫にも先立たれ、今はたった一人の侘しい暮らし。只、音楽という生涯の友に恵まれ、老境の日々ではありますが、2012年から今日まで、この『麗しい黄昏の日々』を歩いています。ところが昨年の4/29から始まった激しい暴力、その結果、最近では雲の中を歩くような眩暈と、体のあちこちの痛み等があり、特に2021.05月初旬、彼女から受けた、右前頭部への、干しもの竿による打撲がとても心配です。当時はあまりの恐ろしさに身体が震えました。

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彼女の暴力はいつも不意打ち。そして暴力後も暴力前も無言です。住まいは同じマンションの一階。そのマンションの縁側、庭、廊下、エントランスホール等で突然襲われます。最近は自宅周辺の道路上などがその場所になり、今年の3月頃からは、本人だけでなく、数名の男性や女性達が、彼女に変わって、単独で襲ってきたりもします。事も無げに襲う、彼、彼女。知人かどうか、不明です。彼女は道の傍の公園で、それを観ています。私が暴力を受けるのを見物しています。ベンチの仲間と一緒に指さして揶揄したりしています。

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3月後半のある日の事、マンション近くの歩道で、私への加害者のA子、仲間のB子らが、自転車を使った、暴力がありました。直進の自転車で左わき腹に打撲。体当たりです。今でもその後遺症が強く、脇腹や肋骨がキリキリ痛みます。此れまでの被害も、警察へ通報しましたが、暴行を傍で見ていた人や、お医者さんの診断書がない等の理由で被害届を出させてもらえませんでした。しかし今回はこの様子を、数十台のサイクリング中の女性たちが目撃しています。暴力が終わった2人は、そのサイクリングの車列の中に潜り込んだのです。

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主犯のA子は60代後半、一緒に自転車をぶつけた女性も60代かと。その他の仲間は年齢所属不明です。今の所恐ろしいのはA子本人とB子ですが、周囲も私への暴力が楽しいのか、別の意味があるのか不明ですが数人が参加、実際に彼女の命令いっか、容易に私への暴行を加えてきます。何とも恐ろしい無法地帯のような光景が今繰り出されています。

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さらに彼女単独で行った暴行行為は、2021年4月29日から2022年4月27日の今日迄で、最低でも9回。人を利用したり、彼女に同行させた暴力が5回。合計14回。 この中には警察や人権擁護、法曹関係の方がとても吃驚された、右手首へ暴力があります。ある警察官の方は、剃刀は出さなかった?と心配されていました。それを聴いた私は、あの日彼女が行った行為を、どうしても許すことが出来ません。

命を落とすほっどの行為を何故、私へするのでしょうか?最初は訝しく思え、時間の経過に従って体中に起こった異変、胸が苦しく、意識朦朧でした。彼女の長い手で、手首内側の血管を鋭い爪でひねり出す行為)は、本当に地獄絵図、彼女はなんと恐ろしい人なのかと思いました。その後右手は物を持ちにくく、すぐ痛みます。あれは2021年6月24日夜の事、それを実行している彼女の恍惚の顔、それらが今でも、はっきり目に浮かびます。

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今年になってからは、彼女の単独行為は無かったのですが、マンションエントランス及びマンション通用口にて、外出の私を待ち伏せ、脅すような様子(威嚇)を同居中のB子と頻繁に。他人を利用した暴行は、今回の自転車による暴行(2人で自転車を脇腹にぶつけて来た)以外にも数多くあります。そんな場合、今回を除き彼女は、道の脇にある公園内でその暴行の様子を見ており、成功すると私を指さしたりして、同席中の仲間たちと手を上げてお笑いしたり、揶揄します。

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まだまだあるのですが、別人が彼女に替わって、私に暴行したのが3回。①洋服の女性がクレアモールパーク脇の道で正面衝突。胸に酷い痛み(濃いベーュ色のワンピースを着ていた)4/1マンションから出てきた着物の女性、クエアモールパーク脇の道で、わざと接近、私の左肩から胸めがけて自分の左肩をぶつけて来た。(体が左から少し捻じられたせいで、胸の真ん中から左付近、左腰骨、左足の膝に今でも痛みがあります)



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この文章を綴るに際し、それ相応の覚悟もありましたが、仕返しなどの本格的な暴力なったら大変。それが恐ろしく、躊躇もしました。然しすべて本当の事であり、この暴力が当たり前だとばかりに、彼女自身だけでなく、全く関係のない面々を引き連れての暴力行為にはどうしても許しがたく、心の底から哀しく思います。


川越在住50年目の今年、私の命を懸けたこの文章、拙文ですがこれをしたためました。本当に長い文章で申し訳ございません。しかしこれは中傷はなく、この現実を知って頂き、もっと明るくてもっと健康的は街づくりを行政にも働きかけ、人生最後の黄昏時代になっても、微笑みを絶やさないで送れる街に、お役所も私達市民も一丸となってみんなで作り上げてゆきたい、そんな気持ちで綴りました。


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命の萌ゆる頃 [黄昏は麗しく]

毎朝、目を覚ますと直ぐ庭に出る私、此処に来て以来、朝のご挨拶はまず庭に植えられていた植物の面々に。紫陽花・グミ・柏葉紫陽花・マンリョウ・そして平戸つつじ。豪雨の日も、雪の中も、日照りの日も、只ひたすら穏やかに、静に時をまっている。

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今夜のような金曜の夜には、OL時代から続く気持ちそのままに。嬉しくて楽しくて眠りたくない夜です。音楽を聴いたり、いつもは見ない深夜のTvを見たりと。そうそう最近は真夜中のコーヒーも必ず。大好きなチョコレートも忘れずに。そのすべては過ぎ去った日々の中の一コマ。私の青春も、ダンシング オールナイト。あの頃の疲れを知らない、青い日々。151cmの小さな体が広いフロアーを大きく巡ります。リードは当時大学生4年生のWさん。

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1962年頃の話です。まだ19歳だった私が社交ダンスに魅せられてのには、こんな理由があります。私が学んだ女学校では、体育の時間に社交ダンスの授業にあったのです。それは、『淑女のたしなみに』為でした。中高一貫の女学校へは家から都電に乗って通学していました。

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その後、晴れて19歳になった頃の私は、御茶の水にある専門学校へ通いながら、一方社交ダンスに夢中になっていました。母には内緒で、土曜日ごとに、渋谷まで通いました。渋谷駅の近くにあった、ハッピーバレーというダンスホールが私の目的地です。ダンスホールでは殆ど生演奏に乗って踊たように記憶しています。特に土曜日は一流バンドの演奏が多く、かなりの混雑でした。私達が特に好きだったタンゴは、今でも絶品だったと自負しています。パートナーWさんの、リードはまるで魔法。ほんのわずかなサインが、私の体を踊りの輪の中に。自画自賛ですが、まるで蝶のようにおどりました。夕方からラストまで、踊り続ける私とWさん。

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人生で初めてダンスを教えて下さったWさん、無口で、飛び切りダンスの上手な方でした。ダンスホールで待ち合わせ、ダンスホールでさようなら。そんな暮らしが1年近く続き。Wさんは卒業して大阪へ。当時の私は、母からお見合いを急かされておりました。まだ人生を生き抜く事への不安など、全くない日々。23歳で結婚したお相手は

13歳年上の幼馴染。ここから私は、先の見えない長い人生を歩み始め始した。今思えばもっともっと丁寧に先々を考えて生きるべきでした。


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現在、川越に住む私。小さな庭ですが四季折々を楽しめる小さな庭もあります。この庭の面々は、私の背丈ほどの木や草花ばかり。しかし気が付けば、私はこの庭の面々のお陰で、寂しさから救われ、生きる幸せを感じるようになりました。ここの家に来て7年の歳月が流れ、私はいつのまにか『辛抱』の意味を知り体。感することに。それは彼らのお陰なのです。彼らはどんな気象条件でも、どんなに私が手入れを忘れを忘れていても、自然と共に生き抜く力をもっていて、つねに凛として、その生き様を私に教えてくれたのです。

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今は何があっても恐れない、そんな私になりつつあります。春の庭には穏やかさがあり、夏の庭には日照りの厳しさもあり、秋の庭には哀愁もあり、そして冬の庭には…来る春を待つ楽しさがありますね。それでは今夜はこれで。皆様、今夜もお付き合いを頂き、有難うございます。

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 ※庭の平戸つつじが咲き始め増した。入居4年目から咲き始め、今年のはるはますます艶やかに。

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ステージ衣装 [シンガー]

私が母の舞台をはじめてみたのは、たぶん小学生の低学年の頃だったと思います。当時母は未亡人になって数年の頃、ラジオからは今は懐かしい、流行歌が流れていたころです。みやこ(私)8歳、母36歳頃の話です。その頃の私たちは、空襲で家を焼かれ、知人の家の2階に住んでいました。当時の父の年齢は39歳、母33歳の頃。祖母と母と父と私。祖父の覚三郎は茨城県の人で終戦の翌年に亡くなっていました。


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私の父は長崎の出身、海軍工廠を出てから東京の明治大学、卒業後は、戦前の鎌田にあった、日本自動車・飛行学校へ就職。その会社が出版していた『スピード』という本の編集をしていました。戦争がはじまり紙がなくなった昭和18年には、私が生まれ、昭和20年の終戦を迎えたと母から聞いています。しかし戦争の思い出も父の思い出もほとんど無く、祖母の優しさに包まれた幼かった日々が記憶の中にあるだけです。


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昭和22年、結核を患っていた父が他界、母愛子、祖母みよ、娘のみやこは4歳になっていました。戦後という時代の中でしたが、母の強い生命力と、祖母の深い愛情で、何の不自由もなく、我儘いっぱいに、小柄な少女は育ってゆきました。みやこが小学生になったころ、住まいが早稲田に移り、母は日本橋の料亭に勤めておりました。気丈で、今でいう『小股の切れ上がったいい女』、母の愛子はのちにその料亭の女中がしらとなり、日本橋界隈を闊歩する毎日でした。

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その母は職業柄もあって、色々と芸事を習っていました。例えば日本舞踊。おけいこの日には私も一緒に。「チントンシャン」とお師匠さんの口三味線にうながされ、母と踊る『博多夜船』・ひとりで踊った『梅にも春』。遠い日々は、あまりにも楽しく麗しく、昭和という時代の苦さなど、幼い私にはまるで無かったようでした。


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美人で・頭がよくて、商売が上手な母は今でも私のあこがれ。芸事にも優れた母は踊りのほかにもお座敷歌や、詩吟なども。日本橋の料亭で行われた詩吟の会には、私も見物に連れて行ってもらいました。マイクなど使わず、母の声は朗々と響きます。その姿が今でも思い出されますが、磨かれた母の声はもう二度と聞くことはできません。母に衣装はいつも豪華な着物。いわゆる江戸前の粋な着物ばかりですが、後に母が言うには「着物を買わなけれは家が、あと三軒ぐらい建っていたわね」。この言葉につきます。家には紺屋さん(こうやさん)と母が呼ぶ染物やさんが始終来てくださり、次々と箪笥が満員に。


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子供の頃の母の芸事への印象は、幼い私の中にしっかりと残され、図らずしも、歌手になれた時、私はステージ衣装には、かなり拘り次々と買い求めることに。しかしここ数年はステージとは殆ど無縁の暮らし、数枚残ったドレスはクローゼットにしまい込んだままです。もう着ることは無い!そうは思っても今でも捨てることは出来ません。それどころか新調したまま、直用しなかったグリーンのドレス、裏地がついた絹のドレスです。人生の大先輩から最近いただきました。今年こそ、このドレスで、心身ともに再起動したい私です。


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今年も平戸ツツジが美しい花を咲かせています。


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涙が咲かせた花ならば [シンガー]

ここの処、昼夜構わず眠り続けています。危ない!確かに危険です。一度検査を受けなくてはいけないのかも知れませんね。しかしこうなっても不思議でない程、沢山の傷が頭に脇腹に、背中に足に。2022年は3月半ばから4月半ばまでで5回、去年の2021年が4月~6月までと12月迄に9回。合計14回のきつい暴力です。身体の彼方此方が、この一年は痛み続けました。然し慣れとは不思議なもので、何とか生き抜いてきました。


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夕方の事です。朝から全く鳴らなかった携帯が大きな音を立ててなっていました。「はい、みやこです」と私。すこしはにかんだようなTさん。95歳になられる紳士のTさんとは、以前お家がご近所でした。子供時分は児童合唱団のメンバーだったそうで、歌のとても上手な方です。久しぶりにお電話いただきました。「実は病院で転んで頭を打ってしまって…」と恥ずかしそうにでも笑いながら話されるTさんです。


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「その後どうされましたか」、やや心配そうな電話の声。何とも不思議なご縁なのです。Tさんは、私の歌友だちの友人。そのTさんが9年前に私に紹介して下さった子さんは、しばしば私のブログに出てくる暴力女史の子、その女子のお姑さんになります。本当に不思議なご縁で繋がっています。若いころ川越の会社に勤めていたTさんは、仕事帰りに部下を連れて、Yママの店によく通ったそうです。現在85歳になるママの方も「あら、あの歌のうまい方ね」と覚えていて下さったようです。


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さて、A子がボスの暴力はグループAは、女性が3名・男性2名で編成されています。最近はその中の一人が私に暴行を仕掛ける事も。そんな時は公園のベンチでA子は休憩。お酒を飲んでグループと私を指さして大声で笑っています。私は、交代で狙われるので、以前より頻繁に痛め付けられます。兎に角、不意を突かれるので、逃げる事も110番することもすべて後の祭り。彼らからの暴力は止まることなく続いてゆきます。


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実は、その様子を個別にですが、私がお二人に伝えていたのです。お双方とも随分心配して下さいました。特にYママには、息子のお嫁さんいあたるA子には是非とも注意をして頂きたかったのですが。スタートが2021.04.29日の暴力は、1年経った今になっても、その暴力は、一向に止まりません。歌の上手なTさんにも心配して頂いています。特にYママはK子の姑さんなので、かなり気を使っておられるようです。しかしそれとは別に、若かりし頃の思い出も懐かしそうに語っています。


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そんな二人の想いを銘々から聴くうちに、人間とはやっぱり愛しい人や懐かしい人の事を語るとき、生き生きと命が燃える、その事を、その様をそれぞれのお声からも感じました。今、私にも語りたい人がいます。いくら話し続けても語り尽きない私の想い。しかしそれを語れる日、私に来るでしょうか。


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ここの処、辛い日々が続いていたので、何時も私の目には、涙が溜まって落ちて。そして今日の事、私は電話でTさんの話しを聴きながら、何故か涙がほろり。落ちた涙のその下で、小さな花が咲きました。黄色い小さな涙の花は、グミの花に似ているような、いつか成りますね。グミのような、赤くて甘い実が、私の明日にも。

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デコポン&カメラ [シンガー]

皆様こんばんわ桜に心を奪われていたら、いつの間にか4月も半ばになってしまいましたね。ここの処、私の体調はとても悪いです。気が付けばいつの間にか、布団で眠っているのです。私が覚えているのは確かにブログに使う写真の整理。昨日の午前中に撮った写真から数枚を選んでいた筈でした。


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あまり眠っていない夜が明けたのが、午前5時ごろ。何時もならまだ眠っているのですが、昨日は沢山のゴミを出す必要があり、5時半には身支度を済ませていました。実は一日でも早い引っ越しを考えて、不要物を整理中です。かなり捨てています。転居を急ぐ理由は、去年の暴力の続きがまた始まり、体がもう持たないと感じたからです。


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その事が分かった私は一日も早く転居したいと考えました。しかしその費用の高さに苦しんでいます。不動産業者さんにその理由を聞いてみたところ、単身者の高齢者には平常の費用の他に保険代(入居後の入院や未払いなどのリスクに備える保険代金)に充てるので、総額で50万程度は掛かるそうです。暴力から逃げるには転居以外ありませんので、今回も県民住宅へも応募します。しかし4月ということで倍率も高く、見込みは薄いかもしれません。

そんな日々なのでかなりの疲労感があり、睡眠の不安定や胃や腸も不調です。


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私が「単身高齢者なのに」と、いくら愚痴を言っても融通が利くことはありません。独り身の女性の生き方は、所詮せんない物ですね。老人ホームへの転居という考えもありますが、いまは未だ一人暮らしで、生きて往きたいと。夕方、気晴らしを兼ねてデパ地下へ。仏壇へ供える果物をあれこれ探していました。盛りのイチゴをあれこれと。棚の上、籠の中に何かが見えました。顔を上げて籠の中をみると、そこには大きなデコポンが。母の大好物なデコポンです。


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そういえば。今年の春は何故か急ぎ足ですね。満開の桜をあまり見ていないまま、葉桜になってしまいました。今日の写真は新しく買った中古カメラでの作品です。私は案外好きですが、皆様は如何ですか。長文をお読みいただきありがとうございます。


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この命、誰の物 [シンガー]

今日はお釈迦様。幼い頃には祖母に連れられて花まつりの山車を引きました。あれから70余年の歳月が過ぎ、今私は命の危険に曝されながら、それでも果敢に立ち向かって生きています。隣室に住むA子からの暴行は今でもやまる事はありません。去年の4月から始まった、私をターゲットにした暴力の数々。9回にわたる暴力行為は其の度に警察へSOS。しかしそれも成果がなく、未だに彼女は暴力行為を続けています。

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今年人あってからの、その方法は、一人では実行しません。周りに彼女の同僚、もしくは知人などが加わって、2人組で行う場合もあったり、中心人物のA子以外の仲間からの暴力も受けるようになりました。今回は110への通報はしていませんが、高齢者への虐め等の相談室へは時々相談に行きます。彼女の暴行の仕方は、今迄なら人に見られないような方法を取っていましたが、今回は人の前で堂々と彼女流の暴力を。その1、多分3月の末、2021年度の締め切りに彼女の会社も私も追われていた頃です。


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その日、確か昼頃だったと思いますが、散歩に出かけた私、マンションからでて右方向(東方面)へ歩き始めました。家数でいうと3軒目に差し掛かった時です。突然彼女と、同室の女性の自転車が、わたしの左側、それも体すれすれに、ぶつけてきました。吃驚してすぐ前の八幡通りを右折しようとした私を、2台の自転車は曲がらせないように私の体を遮り、八幡どうり左側を駅方面に走り去りました。その時、運のいい事に左側には長い自転車の列が。殆ど女性だけの自転車の列です。その中に2人の自転車はすうーっと入って行きました。あの道には防犯カメラもある筈です。


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私はあっけに取られ、ただ茫然と。左の方から脇腹にぶつけるやり方は、一年まえと同じような暴力、その時も自転車でした。その暴力と同じタイミングです。何故?何故?A子は暴力を止めないのでしょうか。カンセラーの先生に伺ったところ、多分憎しみというより、虐めたいとか、追い出したいとかの感情なのではと。私からみると、その行為はとても70歳に近い女性のする事ではないように見えますが、本当のところは本人以外は分からないですね。

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今日も今日とて、公園で桜を撮って駅へ向かおうと公園の桜の樹の下を歩いていたところ、突然背中に痛みが。犯人は公園の主のようにずっと前から住み着いてこいる背の高い女性、その女性でした。そしてそれらを指図してるA子は公園内のベンチに腰掛けながら、数人の男女でその様子をじっと眺めています。


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生きている私が罪なのか、暴力を続ける彼女たちが罪びとなのか、私にはもう分かりません。周囲の反応は、命を大切にするなら「逃げろ」。しかしこのまま無視していれば、そのうち飽きる等という考えもあるようです。どちらにしてもこれ以上この暴力を繰り返されれば、本当にもう今世とはお別れしなくてはなりません。ね。この1年で彼女からの暴行で受けたきづの痛みは今でも続いています


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かつての川越城では江戸城より多い忍者がおり、その住まいが今私のいる場所から北へすこし行ったところにあったそうです。そして図らずも2015年の頃の転居後、私の住まいは、忍者の方々が住んで居た場所に近い場所になります。川越に転居してから50年目です。私は今、その忍者の亡霊に日々、出会っているのでしょうか。当時の忍者の数は江戸城のそれより多かった。そんな内容の文章が以前購入した「川越城下重ね地図」で見た気がします。私の住まいはまさにその近くにあるのですが。しかし忍者は城を守るためにいた方々ですよね。然し彼女の暴力はまったく動機は違う筈です。今夜も薄い眠りになりそうです。


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