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葉書き、それはワンダフル! [回想]

久しぶり部屋の中を丁寧に掃除してみました。いつもなら、何かが見つかるものなのですが。例えば、少し前の時にはノートの中からクリーム色の封筒が。宛先は大切な知人。裏書には今の住所と日付が。2016年の日付でした。そして今回は私宛のハガキ、達筆な文字は小学校の時の担任、N先生。4年生から6年生迄の三年間をお世話になりました。同級生の中には、卒業以来ずっと先生への年賀状などを出していると聞いて、少し恥ずかしく思ったその年、私も出しました。


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手紙は本当に、相手の心に伝わるようですね。昔、その手紙の事で、とても悲しい失恋をした思い出があります。随分昔の話ですが。あれはTMさんという女性からの一言でした。「好きな人に、自分の心を伝えたいの、手紙を書きたいのですが、どう書いたらいいの?」そんな内容でした。そこでお節介な私が提案したのは、『葉書き』に書いた絵手紙でした。シンプルに、押しつけがましくなく。そしてその恋が成就して、彼女はその方と結婚式を上げました。しかし私は心から「おめでとう~」とは言えない複雑な気持ちでした。心を伝える、難しい事なのですね。


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その件があってから、私は手紙が嫌いになってしまいました。今はこうしてブログの中で、時々の想いや悩みを吐露しています。お返事は皆様から頂くnice!です!(^^)!。これからもどうぞ宜しくお願い致します。


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私の中の長崎物語(その2) [回想]

長崎生まれの父と、東京生まれの母の間に生まれた私、20歳の時、母に連れられ長崎に行きました。あまり記憶が無いのですが、駅からは歩いてゆける距離だった気がします。長崎県長崎市麴屋町は寺町通の直ぐ傍です。父の実家はそこにありました。母が結婚した戦前と呼ばれる昭和初期頃、この実家は作家さんなどの定宿として広い家を構えていたそうです。 collage.miyako.300.jpg あの日の事はこのブログで何回も書きましたが、父の実家では父の実母の姉(養母)に会っただけ。滞在時間5分程でした。私は,悲しくて、やりきれなくて。母が可哀そうだと思いました。本当は市役所に勤めていたらしい、父の弟さんに逢いたかった私。 collage.miyako88.300.jpg そんな長崎を後にして、私たちはとんぼ返りすることに。ただ、数件の観光地には行ったと思います。 その一つはグラバー邸。もう一つは父の実家の目の前にあったシナ寺と呼ばれる大きな大きなお寺。龍踊などで有名なところのようです。 collage.miyako09.24.aa.300.jpg
私の中にある長崎はあの日の儘ですが、今は大きく様変わりしている事でしょうね。もう一度訪ねてみたい長崎。父が生まれた平戸へも行ってみたいです。ちなみに父の生まれたときの苗字は平戸。そして私が今住んでいる庭で優雅に咲く大きな花弁のツツジが、平戸つつじです。

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流れる [回想]

我が人生を思う時、やっぱり、一筋縄では行かないのだと、しみじみ思います。自分ではほぼ覚えていないような幼い時分から今日まで、多かれ少なかれ、山あり谷あり。振り返ってみれば、4歳で父親が他界。そのためには母は仕事に付き、祖母と2人だけの寂しい暮らしでした。当時の事で覚えているのは、音羽幼稚園に通うあの道、秋が深くなると、銀杏の並木になります。

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4歳から3年間通った音羽幼稚園は、父の希望でした。音羽幼稚園は、護国寺のお隣にあり、同じ敷地に音羽ゆりかご会がありました。以前も書きましたが、幼稚園の帰りには、私は一面の紅葉に、一人戯れて時間を過ごしていたのですが、もしかしたら、音羽ゆりかご会から聴こえる歌声に聞き入っていたのかも知れません。

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そして小学校へ入学の時期を迎えました。青柳小学校は当時、日大豊山と大通りを隔てて向かい側の位置にありました。そうそう面白いエピソードが。入学式の日、母に連れられて門をくぐった私ですが、名簿にその名前が無かったのです。随分待たされた後に、漸くわかった事は、学校側は、私を男の子だと勘違いして、女子の名簿には記載されていませんでした。

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まさかと母も驚いたとおもいますが、間違いは,郁と都の取違。郁なら男の子、都なら女の子。そのように思われていたそうです。ずいぶん待って、漸く入学した青柳小学校。まるで幼稚園児ほどの小ぶりな私は席も一番前。2年生になるころ,一家は早稲田に転居。私は小さな体で、都電で通学することに。満員電車ですので、後部ドアから乗り、車掌さんが仕切りの中に入れてくれました。

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3年生になった私は早稲田小学校へ転校。毎朝、同級生が迎えに来てくれました。しかし漸く慣れた頃、今度は家から近い、鶴巻小学校にまた転校。鶴巻小学校は大隈講堂のすぐそばにありました。当時の鶴巻小学校では、建物の一部には、戦争で焼け出された方々の住まいもありました。転校したての私たちは、運動場の砂利をみんなで運びましました。

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そして、6年生まで担任して下さった今井先生。小さな私をいつも気にして下さいましたが、一つだけ許して頂けなかったことも。それは進学する中学を決める頃でした。私は共立を希望しましたが、先生は駄目だと。当時の私の成績評価は高かったので、どうしても受験させてほしいと頼みましたが無理でした。その頃、父がいない私には受験できなかった様でした。その後、別の女学校へ行くことが決まり、伝通院にある淑徳学園へ入学。

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私が高校2年生の夏の事、当時の私は勉学も学園生活も満喫して充実した日々を過ごしていました。ところがまさかの大事件に巻き込まれ、私の人生は此処で大きく変わります。その後の数年。私は家出をしたり、祖母のなき後の母を、大きく拒否しだしたのです。まだ大人では無い少女には、眩しいほどの母の暮らしを受け入れられない時期だったのです。

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あれから60年の歳月が流れ、私は今、母の遺影が唯一の救いです。大きな母の慈悲を受け入れることが出来なかった未熟だった自分、今頃反省しています。夫の残した借金で、母が私の為に残した家を失い、いままたい現在の住まいも居られそうにありません。隣室の女性から暴力を受けた私。あの日の恐怖、その後の体調不良。私はこれからもまた、流れる水のように、見知らぬ何処かへ流れてゆくのでしょうか?留まれない、何がこうさせるのか、一言で運命といいきるには、あまりにも残酷な運命です。
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黄色い封筒 [回想]

物置同然になってしまった南側の洋間、その一隅は以前の家で使っていたパソコンラック。夕方探し物をしていて見つけたダイアリー。中をめくると、黄色の封筒が挟んでありました。其のあて先には懐かしいあの住所が。裏には2017.01.17と。出さなかったのですね。きっと何かを教えて欲しかったのか、苦しみを解決したかったのか。若しかしたらSOSだったかもしれません。

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教室も軌道に乗り、その分レッスン内容も様々な知識を必要になっていました。きっと何か悩んだのですが、内容が書けなくて、そのままに。ところが今になって思い当たることが。それはある女性からの深夜の電話。それも連続2日です。内容はとても怖い話です。これはほんの一部です。『お前 足腰が立たなく…』、『若いもんに』、『川越には…』『戻れ…ない』でした。怖くて怖くてその時はパニックでした。その電話、女性の怒りは、火を吐くようでした。そして今回も同じ女性の意味不明な行動。

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あれから丁度4年。コロナの日々に誰もが心晴れない日々。突然、押しかけて来た4人組。女ボス以外はシニア男性。ボスのスナックに来るお客さま。自主トレ中だった私のICコーダーには、その様が記録されています。それによると、私は教室を女ボスに明け渡し、川越を追われることになっています。しかしそれは杞憂でした。ひとまずほっとした私。しかしなんだか足元が水浸しになったようで、すこしでも強い雨が降れば、ジエンド。まさに女の一生は先の見えない迷い道。

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何故だろう~。思い起こせば、夫の突然の死を境に起こった嵐のような騒動。私は毎夜見えない敵に脅かされ、睡眠は昼間しかとれませんでした。シンプルな事件ではなかたそのの出来事。夫が残した負の遺産は数千万円を超えます。私の実家、母から受け継いだ大切な土地と家を売り払い、そのお金で私が払うことに。まさに、身一つで再スタート。40年間暮らした家は綺麗に立て替えられ、若い夫婦の住まいへと変わっていった。私は川越駅近くのマンションへ。仕事場へは徒歩2分ぐらいです。近所には川越八幡宮があり、辛くなったら、必ずお参りに。

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話を戻します。あの封筒、あの黄色い封筒は今度こそ投函します。今夜は何を書こうか考えています。私信を出したらきっと破かれてしまうでしょうね。オフィシャルな内容であれば、読んで、その上お返事なども頂けるのではと、ちょっとだけ心が騒ぎます。

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今日の写真もまた教室の窓から見える西武新宿線。これに乗れば高田馬場まで行けますね。夜も更けたわが町川越、今は大寒の筈なのに、遠い昔、文を交わした早春(はる)の夜と、心のざわめき似ています。おやすみなさい。





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魂の歌声 [回想]

久しぶりにYouTubで新曲を探していました。BSが見られないので、新曲情報が全く入りません。毎月5~6枚位のCDの購入をしますが、そのうち数曲しか使われません。教室には300曲を超えるCDが棚一杯に並べてあります。時々、昔の歌を出して一人で歌っています。

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夕方、月曜疲れがどっときて、早めに帰宅した私、夕食にはデパ地下で買った、海鮮バラ寿司。お腹を満たした後は明日のレッスン曲の下調べ。家のCDプレーヤーが壊れているのでYouTubeから探すことに。そこで、ふと目にした藤圭子と言う名前。何となく聞き惚れているうちに、止め処もない程、涙が溢れてきました。

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何故、泣けてきたのでしょう、歌詞にある新宿と言う地名、そこから思い出される青春の日々、私の青春にも哀しく辛い思い出もありました。藤圭子さんの歌声には、そうした思い出を揺さぶる力があります。美しくも切ない、それでいて強い意志を感じる歌声でした。涙をぬぐい去るまでに30分ぐらい。幼い日を思い出し泣きじゃくってしました。

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今日は、偶然にも、藤圭子さんの歌に巡り合い、時間を掛けて聴くことが出来ました。昭和の歌、あの時代を彷彿させる歌声を聴けて本当に良かったあ!魂の歌声に、ずっと棲みついた恨み辛みの数々が、逃げ出したのかも知れません。沢山の涙が洗い落としてくれたのかも知れません。
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巡り来て [回想]

七七回目の誕生日。今更って笑われそうですが、でも楽しい誕生日にしたかった私。何も起こりません。何も起こしません。何時ものように風が吹き抜ける教室で4時間歌いました。2時間はTさんヘのレッスン、後半の2時間は自主トレ。


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今のコロナ自粛の中では経営とは言えない日々です。しかしこのまま手をこまねいても、じり貧になるだけです。兎に角、一歩でも2歩でも駒を進めなくてはなりません。そこで今回は町ぐるみのイベントへ参加。行事が中止になった溝を少しでも埋め、みんなが元気になるよう、沢山のポスターで街を盛り上げるイベントです。あと数日で完成かと思います。

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意表を突いたこのポスター、大きな波動を呼び起こせるでしょうか。どちらにしても昔の時代であればご隠居さん世代(笑)の私。しかしこの時代だからこそ世代を超えて新しい生き方に挑戦してもいいと思う次第です。教室からの帰り、自分へのプレゼントを買いました。パワーストーンの指輪です。

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旅ゆけば~ [回想]

あの~これ、浪曲の…、いいえ、あれではありません。広沢寅造さんが語った清水次郎長伝の冒頭は「旅ゆけばああああ…」ですね。祖母の大好きだった浪曲、虎造さんです。毎晩ラジオから流れる浪曲聞いて、祖母と私の一日が終わります。殆ど祖母の懐に潜り込んで眠ります。

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そんな時代を過ぎ、私が反抗期を迎える頃、祖母は長女(母の姉)の家に手伝いに行くことになりました。そこは竹島町の家が焼け出され、私たち一家が身を寄せていた家です。一方私は母と2人暮らしになりましたが、同じ敷地内に母の弟一家が住んでいたので、洋裁などを習うことが楽しかった記憶があります。ミシンはソシンガー。早稲田から川越に転居する時、捨ててきました。今思えば取って置たかった!

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そして昭和48年5月。母は川越に転居してきます。私は23歳で結婚した10歳上の夫と、母の家から歩いて10分ほどの隣町に住んでいました。家探し初日に母が購入した家は築2年の平屋。価格は東京の家を売ったお金の5/1程でしたが、驚いたことに母はその家を壊して、総2階のアパート兼用住宅に建て直しました。お洒落な学生さん向けアパートは大人気で、全て満室に。その後長い間、家から近い大学の学生さんで満員でした。

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母が近くに転入して以来、夫の様子に異変。女性の影が見えてきたのです。同じ勤め先の女性、子供さんがいました。私はこの際、別れようと思っていた矢先。しかし運命とは摩訶不思議。しばらくして夫の勤め先の特殊法人から転勤の命令が出たのです。行く先はインドネシアのボゴール。

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私は、母が近所なので一人で寂しくないから,「どうぞ行って下さい」と大賛成。ところが大いなる誤算でした。転勤には夫婦同伴が原則だったのです。悩んだ末私も行くことに。時々帰国すればと簡単に思っていました。三か月後私たちは母を残してインドネシアへ。私は長い空の旅にグッタリ。インドネシア上空に近づくにつれ、海は赤く濁っていましたし、飛行場に降りた時の臭いはかつて嗅いだことのない異質な匂いでした。

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ジャカルタからハイウエイで30分ほど走ると、ボゴールという町に着きました。ハイウエイーでは路肩に牛車の列が…。もう~見とれてしまいました。ボゴールでの当初の暮らしはゲストハウス。初めての食事はナシゴレン他色々でしたが、殆ど手を付けられませんでした。翌日からは観光に。最初はボゴールパレス(当時の名称です)と植物園。そしてしばらくはゲストハウスで暮らすことに。

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こうして初めて見る異国の地で、美しい星空を見ながら、異国で暮らす私の心に、この暮らしもいいかも知れない!そんな思いがよぎり始めました。しかし運命の神様は気まぐれ。暫くして親戚からの電話、母が危篤とのことでした。急いで夫に一時帰国を頼み、私は帰国することに。しかし当時はJAL指定でしたので、連絡が来てから3日後にジャカルタから日本へ向かうことに。つづく。

次回は日本で私を待つ、ある事件が。身の毛のよだつ話です。



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紫陽花の布巾 [回想]

不要不急の外出は出来ない、しかし家の中ばかりでは体力はどんどん衰えます。正座が普通になった最近の暮らし、膝を傷めないように、体重を減らそう~。そう思って散歩を続けてきたのですが…。散歩、諦めていたのですが、夕方観た都知事会見では体力を維持するための散歩は大丈夫のようでした。

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さて今日も今日とて若さを保つ散歩に出かけ私、縁起のいい西南西へ向かって歩きました。そして行き着いた場所。それは駅近くのマインというビルでした。そこにはB1に大型スーパーがありますが、エスカレターでさらに降りてB2へ行くことにした私。目的はキャットフードと日曜雑貨。

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キャットフードは本日20%引き。その後、向かいの100円ショップへ或るものを買いに立ち寄ります。其の或るものとは使い捨てタオル。実はこれマスクに使います。目的の不織布を見付て店内をブラブラしていた時、ふと見つけた綺麗な布のようなもの。近寄って見るとそれには❛ふきん❜と書いてありました。手に取ってみると白地に薄紫の紫陽花が描かれていました。

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最近は布巾などあまり使わないけれど、昔はお祭りの手ぬぐいなどを、後で半分にして布巾にして使いました。其の『ふきん』です。そして…紫陽花と言えば、それは母との思い出。母の十八番はお堀の紫陽花。着物にも紫陽花がよく描かれていました。そして紫陽花の話題のたびに、母の出生地,千代田区麹町のことを必ず私に語り出すのでした。

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母の両親は茨城県の下妻の近くの生まれで、親戚を頼って早くから上京したようで、母の父、私の祖父は上京当時は日本橋のミツワ石鹸本舗に勤めその後、九段郵便局へと転職。母も愛国女学校を卒業後にはその郵便局に勤めていたそうです。

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こうして母は幼い時から皇居のお堀を見て育ちました。「桜も行けれど…都ちゃん、私はやっぱり紫陽花がいいわ。お堀端の雨に濡れた紫陽花はそりゃあ~綺麗なのよ」。そういえば母は雨女。5月の雨の日に天国へ行ったのですから。私は、紫陽花という文字を見ただけで、やぱり母が偲ばれます。
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味噌汁 [回想]

昨晩、ひどい胃腸炎に。有り合わせの胃腸を飲んで3時間近い奮闘。昼間は近所に消防自動車が来たりして、コロナウイルスの恐怖もあり、不安な心が飽和状態でした。

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お陰様で今朝の寝起きもよく、昨夜の腹痛は嘘のようです。年々、体の彼方此方が悲鳴を上げていますが、不思議に喉の状態は案外良好。睡眠、食事、散歩などは今までとかなり変わりました。特筆すべきは『お味噌汁』。

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お味噌汁へといえば、なんといっても祖母。祖母の味噌汁とぬかみそ漬け、とにかく絶品。今思い出すと、つくり方の丁寧でした。最初は煮干しをコトコト、柔らかく丸までコトコトと。具には野菜が数種類。私は茄子や大根が好きでしたが、母は豆腐、アサリのお味噌汁も大好きでした。

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祖母は何事にも悠然と、笑うことはありますが、怒ることは殆どありません。白髪になってもきちんと、着物(夏は浴衣)を着て。73歳という若さであの世に行きました。幼い私には祖母の懐が全てでした。

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私は最近味噌汁を多いときは2回は必ず飲みます。今まではインスタントが多かったのですが、この頃は手を加えて飲みます。ほうれん草、大根。ジャガイモ、ナスにキャベツ。その他季節の青物など、とにかく新鮮な野菜を加えます。野菜は少しコトコトして、その後インスタント味噌を入れます。野菜の味が出てとても美味しいです。
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今まで毎日5杯飲んでいたコーヒーを少し減らしました。仕事疲れの出る午後4時ごろ、インスタント味噌汁を飲むだけでも、疲れた体が復活します。味噌汁は祖母の味、味噌汁は家庭の味、味噌汁は人生の味。皆様の味噌汁はどんな味?





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『喧嘩は江戸の華』 [回想]

だいぶ昔のこと、惚れて惚れぬいた人が…。しかしその人にはやぱり惚れて惚れぬいた女(ひと)が。変な関係です。しかし私的に言うと人に恋もできない人は冷静すぎて恋の相手ではないと思います。

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大好きでした。でも明朗な好きという気持ちです。ある日地下鉄の駅で待ち合わせする事に。その駅には出口が何か所もあったこと、私は知らなかったのです。かなり遠い昔、通学の時に開業間もないその駅を使ったきりだったからです。

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随分遅れて着いた私、その人、下向いて傘を懸命に直していました。霧雨の飯田橋駅。私は地下鉄の以前は都電で飯田橋まで、そこから総武線と山手線でお茶の水まで通いました。その人は水道橋だと一度聞いたことがありました。

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君は君、我は我 されど仲良き。有名な言葉ですが、座右の銘にしています。恋愛にはなれなかったけれど、儚くて、美しくて、大切な思い出です。ちなみににその別れの言葉は、だって『喧嘩早いは江戸の華』なので。「それならもう会わないさようなら~。」と。そう断言した以上、今世で会う訳には行きませんね。

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