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都電の走る街で [小説の下書き]

猛暑のなか、街は以前の賑わいに戻りつつありました。12時半ごろ家を出た私は冷たい飲み物3本と除菌ジェルをドラックストアで買い、教室へ。着くや否や「携帯を忘れた!」と大慌て。しかしこの暑さでは取りに戻りたくない、そう思いなおし夕方まで過ごすことに。

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部屋には出口が4か所、窓が10カ所ほどありますが、生徒さんが座るテーブルに近い扉を半開きに。気温が高いので冷房も使います。机や椅子を丁寧に吹き、ドアノブや各スイッチ。通信カラオケDAMのデンモク等々丁寧に除菌シートで吹きます。飲物はビンごとお渡しします。こうした支度に30分ぐらいは係るので少し早めに入ります。帰宅時も朝と同じ内容で除菌をして帰ります。

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家では昨晩からエアコン入れました。そこで大好きなコヒーもホットで飲む事が出来るようになりました。数日前、随分やつれた自分をみてビクリ。少しづつ肉も食べる様にしようと思った次第です。さて小説の下書き、「旅ゆけば~』、ここからは私の母、その愛がテーマになります。

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美しい母でした。生まれた麹町でも、勤めた麹町郵便局でも美人で有名だったそうです。しかし家は貧しく、つんつるてんの着物を着て学校へ通ったそうです。貧しくなったのは関東大震災のせいなのです。歳の違う兄が震災の時に大きな柱の下敷きになり、それ以来病気がち、お爺ちゃん(私の祖父)の給料はお医者さんへの支払いに回り、母のところまでは回らなかったようです。女の子らし衣服を着せる余裕が無かった祖母もかわいそうです。其の頃祖父は九段郵便局に勤めていましたのだとか。

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母は生粋の江戸っ子、いわゆる小股の切れ上がったいい女!でした。昭和10年前後、長崎生まれの父と結婚、父は旧丸ビルで仕事についていたので、新婚時分の二人は銀座一丁目のアパートメントで暮らしていました。その後母の両親と同居、九段下から少し入った麹町で暮らしていました。そしてあの戦争の時代に突入。終戦の時、私は2歳ですから、戦時中の防空壕での話があります。空襲警報で逃げる一家、母が私の為に用意した薬缶から私は始終「お水、お水」と泣きながら飲んで命を繋いだそうです。
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かつてのモボ,モガだった二人はその暮らしのほとんどを戦前戦中戦後の時代に過ごすことに。そして食料の買い出し等、無理が嵩じた父は昭和22年10月、結核で亡くなりました。江戸川橋から神田川に飛びこもうと、母は何回も何回も私を負ぶって江戸川橋の橋のたもとに行ったそうです。大きくなった私は、毎年夏になると、そこから隅田川の花火見物、その帰りになると、いつも母が話して呉れたものでした。、
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33歳で子連れの未亡人になった母、父が掛けていた生命保険も、父が若い時分、佐世保の海で怪我した事を告知しなかったと、告知義務違反で、母に遺した多額の保険は、支払われなかったそうです。祖母と私を養わなければならない母、一念発起して、昼は喫茶店、夜は料亭と2足の草鞋で家族を養って呉れました。

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そんな暮らしの中ですが、私は父の望んだ通り、名門音羽幼稚園に苦しい暮らしに中、母は3年の間通わせることに。音羽通りを真直ぐ歩いてゆくと護国寺があります。その境内にある幼稚園が音羽幼稚園。母迷わず私を通わして呉れました。昭和23年の朝日新聞3月3日号、音羽幼稚園のお雛祭りの様子が紹介され、園児たちの中央に私が写っています。永い事、母は大事にしていたのですが、5年前、私の転居で、紛失してしまいました。
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父が亡くなった時には33歳だた母が36歳になり4歳の私が7歳になったころ、母の身の上に大きな転機がおと連れました。新しい家が早稲田に出来たのです。早稲田大学がある学生街の早稲田。広い庭のある家でした。周囲を板塀で囲んだ家でした。しかし私と祖母は時々、音羽の家に戻っていました。今思えばその日はある方、A氏が見える日だったのです。

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小学生になっていた私は都電を乗り継ぎ、護国寺で下車、区立青柳小学校迄通いました。10歳になった頃早稲田小学校へ転校することに。其の頃には私もA氏に紹介され沢山のお土産や、父なき子の私への思いやりを下さいました。下手なお習字を見て、筋がいいね、頑張りなさいとほほ笑んで呉れました。私たち母娘は祖母も含めて早稲田の住人になっていました。毎日美容室で髪を結い、お座敷用の高価なな着物姿で日本橋まで出勤する母。お酒のみではありませんが、お正月などは私とお酒を酌み交わすのが大好きでした。百人一首の名手ですし、オランダカルタもして遊びました。このオランダカルタは父から教えて貰ったそうです。

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母の美しさは近所でも評判でした。家の近くのお寿司屋さんから毎日特上の握りが届きます。祖母と私は浦安から来る佃煮やさんと世間話。穏やかな時間が過ぎてゆきました。裏木戸からは、離れに入れます。六畳が二つ並んで、窓は少し高い所に、丸窓です。手前の6畳には板張りの小間もありました。
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10歳までの私はA氏が大好きでした。吃驚するほどのお年玉。学校で必要なものを買いなさい!と。しかし中学生になると、私は何となく近寄りがたくなってゆきました。15歳の夏、祖母はお祝いだとお赤飯を炊きました。初潮、それは恐怖と感動の坩堝です。祖母がいたから不安は直ぐ収まったのです。其の頃、A氏は時々母と家で過ごす事もありました。箱根や湯河原に良く出かけていました。母は温泉から帰ると、もう一度私を連れてその宿に行きます。寂しい思いをさせまいと、そんな心遣い母心だったのかと、今ふと思います。しかし家では、「離れには来ちゃ駄目よ」ともいう厳しい母でした。其の頃、母は43歳、日本橋や、赤坂の料亭からご指名が毎日入り、ハイヤーが迎えに来ます。A氏が社長をしているあの会社の接待にも母が呼ばれていたようです。母の下には沢山の仲居さんが働いていました。母の詩吟、歌、踊り、そして話術は大切なお客様方にも大変な人気だったとか。

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父はいなかったけれど、母のお陰で何不自由ない生活、その生活に変化が来たのは私が結婚して暫くした頃から。母はある方からプロポーズされたのです。其の頃A氏はご子息の莫大な浪費に苦しんでいた頃です。しかし母も結婚は断り、どんどん自立した女性になって行きました。私23歳、母51歳です。この頃の母は住まいを直し下宿屋を営んでいました。早稲田大学が近いという利点もあり、人気の下宿屋さんになっていました。一時は30室ほどの部屋がいつも満員でした。そして昭和48年、東京都の区画整理が我家の運命を再び変えることになります。(つづく)



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