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恋は思案の外 [黄昏は麗しく]

恋の一つの姿。総ての恋がそうだとは思いませんが、端的に言うとしたらやっぱり恋には理屈も世間の常識も介在しない、そういう場合があると思います。
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そういえば私、長い人生でたった1回だけとても激しい恋をしました。その時は命を懸けました。しかし今思うと最初から結ばれる筈のない恋でした。その後、亡夫と結婚したので30年間は仕事一筋の人生。夫を送り一人になった時は、もう恋の確率0%になりました。人生最初で最大の困難との闘いは2年間に及び、私は命からがら危機から逃れることができました。
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人生は短いようで長いのです。その後は神様から頂いた命、『生きる』ただ其のことだけを考え続け、慎重に誠実に、争いごとに巻き込まれないように、無駄遣いはしまいようにして生きて来ました。病気もしないように気を引き締めて生きて来ました。
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今回はひょんな事から、私の知人の恋の行方を目撃する事になり、お二人から、私が嫉妬していると、その逆鱗に触れることになってしまいました。女性の方からはかつて無い程の激しい口調の電話もあり、その翌日から私の体調が狂い、胸苦しさや眩暈、声枯れなど大変苦しい日々を送りました。
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私の関心は他人の恋の行方ではありません。オリジナル曲『小江戸桜』を後世まで残したいという切なる思いです。2020年東京オリンピック、沢山の方がこの川越にお見えになる筈です。その時おもてなしの心で、『小江戸桜』を歌いたいと思っています。これからの日々、出来る限り『小江戸桜』のイベントを開いて行きたい。これ以外には残り少なくなった私のパワーを使いたくはありません。
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さて、前述のとおり『恋は思案の外』です。シニア世代の皆様も、各世代の皆様も素敵な恋をお勧め致します。恋は人生をバラ色に…いいえ、若しかしたら100年時代を生き抜くパワーの源になるかもしれませんね。では今夜はこの辺りでおやすみなさい。

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彼岸の頃 [黄昏は麗しく]

父母や祖父母のいる池袋の洞雲寺。電車に乗れば30分しか掛からないのですが、お天気が気になって、今回は後日行く事に。その分、部屋の整頓や常備食の準備ができました。
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さて、10月まであと一週間余り。過日ちょっとしたショクを受けた身体に異変が起き、体中が鈍い痛みに襲われてました。しかし体とは不思議なもので、別の楽しみが生まれてた途端、痛みは何処かえ消えて行きました。
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お陰様で教室開設してから5年が過ぎました。令和になってから初めてのこの秋は教室開設から6回目の秋になります。そこで教室も少しだけ趣を変えようと思っています。それは今以上に高齢化社会の中での歌謡教室の在り方。
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私達がこれから生きる高齢化社会では孤独が一番の問題かも知れませんね。そこで教室も従来までの個人レッスン中心から、お友達作りの一助になるように、グループレッスンを充実させたいと考えました。
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最近の報道などでも、歌と健康についての話題がでますが、確かに私も風邪を引かなくなりました。皆様よくご存じの腹式呼吸が良い影響を与えると言われていますね。人生100年時代を生き抜くには先ずは健康。私も及ばずながら、皆様と一緒に歌で健康的な日々を。そんな風に思っています。
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弟へ送る言葉 [回想]

弟へ。確かな証拠はないけれど、貴方の事は弟だと、逢った瞬間そう思いました。ずいぶん昔の話です。其の頃私は6歳の子供の母でした。 リュックサック姿が部屋のドアの前に立った時、私の驚き様ときたら、しかし男の子は元気に「お母さんこんにちわ!」Mちゃんは5歳、幼稚園の年中組。 P5310311 (3)syuusei.yy88.02.jpg ママと呼ばれた私は40歳の秋になっていました。そして驚くべきことは夫とは結婚(同棲?)して1カ月未満。驚くというより身震いをした私です。更にMちゃんには軽い小児喘息があると聞き、私はスイミング教室へMちゃんを連れて行きました。大喜びのMちゃんは、プールの中で手を振って「お母さん~」と。しかし彼の滞在は一ヵ月ほどで、再び実母の再婚相手の家に戻って行きました。3歳違いのお兄ちゃんに逢いたくなって戻ってゆきました。 P6030621 (3).yy88.1600.jpg 其の頃の私は日比谷にあるオフィスから八重洲の会社に転職。その道のプロだけのオフィスは私にとっては夢の様でした。しかし一方、家に居る筈のあの子が急に恋しくなったりと、40歳を超えた私に俄かですが母性が芽生えたりしました。そこで思い出したのです。あの子を送り迎えしたスイミング倶楽部の近くのレストランを。友人はあそこを隠れ家と呼んでいました。道ならぬ恋の二人がお忍びで行くその場所は、東京と埼玉を隔てる道の途中にありました。 P4250239ps77.yy88.1280.jpg ある日、ふと思い出してその隠れ家に足を運んだ私、隠れ家の裏手にある音楽スタジオを覘く事になりました。Mちゃんが去ったあとの空虚さを埋めたいと思たのです。スタジオにいたのはまだ若い男性。無口だと思ったその人が口をきいたのは、一曲目の歌が終わった時、もっと違う歌にしたら…、と。貴方の声はクリアーな声だと言います。これからはそういう声で演歌を歌う事になるかも知れません!きっぱり言い切った男性。 P6030601.yy88.1500.jpg 歌を続けてみよう、私はそう決心して何回か通いました。しかし運命はいつも残酷です。夫が心筋梗塞で倒れたのです。ドクターは今夜が危ないと。しかし優秀なドクダーのお蔭で2ケ月程の入院ですっかり体調を戻した夫は仕事に戻りました。音楽教室へは看病のために休ませてください。そう伝言したままもう行く事はありませんでした。 P4250237 (3)ps800.jpg そして20年程の歳月が流れ、私は再びその人に偶然出会う事に。まさに奇跡です。そして数年の歳月を経て、ある日ぶっきらぼうに『僕の事、弟と思ってもいい』その人が言いました。 弟が出来た!私はお姉さん!それからの10年はあっけなく過ぎ、今、私はまた一人。夫の連れ子だったMちゃん、今頃は人の親になっている事でしょう。私は、幼くして父を亡くし、母も、夫も。せめて弟だけは…そう思っていたのに。秋の夜長、猫達の恋の季節になりました。今夜は起こされずぐっすり眠りたい私です。

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クロワッサン [黄昏は麗しく]

家の近所にできたパン屋さん、メロンパンが主流らしいのですが、私が主に買うのは、小倉あんぱん、マンゴーパイ、クロワッサン等。お昼ご飯に、晩御飯にこのパンたちが食卓を飾ります。幼いころ住んでいた音羽には関口フランスパンがありました。39歳でこの世を卒業した父ですが、小さ赤ん坊の私をねんねこでくるんで、その店のフランスパンを買いに、始終出かけたそうです。女の子は脚が綺麗な方が良いと言い、昭和18年当時は貴重なベビー用の椅子も、自分で探して来たそうです。椅子そのお蔭で生意気盛りの二十歳頃になってからは、ダイアナや西銀座のウォーカー靴店に飾られたハイヒールを履き、銀座の街を闊歩していました。

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話をもう一度10代の時分に戻します。文京区の女学校に入った頃、私は学校の文化祭で、始めてベーコンを知りました。その後は家でも、フライパンで焼いてトーストに載せたり、いろいろ工夫して食すことになりました。そして大人になってから、ベーコンと出会ったのは、いつも待ち合わせ西銀座テパートF1のスタンドバーでした。始めてカクテルを飲んだのもこのお店。マルガリーターや定番のダイキリ。生意気な私はウイスキーも飲みました。スモーキーなバーボンを。二十歳の頃の日々には不可能はありませんでした。

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その頃、私は社交ダンス凝っていました。19歳の頃にダンスを知り、20歳の頃はそこそこの踊り手に。家から少し歩くと、大隈講堂前に着きます。そこから出る都バスに乗って、私は友人が待つ渋谷のダンスホール、ハッピーバレーに行きます。勿論週一回程度でしたが。同行者はアルバイトで知り合った3歳と年上のU子さん。U子さんは私の母校に隣接した富坂に家がありました。私のアルバイト先の社員さんです。

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二人は別々のパートナーを見つけては踊りますが、私は体が軽いので案外疲れません。閉店は10時ぐらいかと覚えていますが、フルバンドの音楽に合わせてチャチャチャ、マンボ、ブルース ワルツ、タンゴ、上達するとパソド・ブレやウインナー・ワルツなどをほとんど休まず踊ります。羽が生えたように踊れました。

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その後、U子さんは香港へ。向うの靴店で働きたいと行ってしまいました。多分失恋の痛手かと。さあ大変、私は独りではダンスホールへは入れません。しかし神様の粋なお計らいで、日大のダンス倶楽部の学生さんと意気投合。想い出のシーンも多い2年間がこのダンスホールで繰り広げられました。卒業まじかになった学生さん、早稲田の家まで訪ねて下さり、4年待て下さいと。母は喜んでいましたが、私は23歳までには結婚しようと内心思っていました。

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今夜もクロワッサン食べてます。麗しく愛しい青春の日々。そこにはクロワッサンが何時も登場していました。それではきょうはこの辺りでおやすみなさい。
 ※写真は2007年、埼玉会館小ホール。



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仮縫い [シンガー]

皆様今晩わ。『仮縫い』という言葉がありますが、昔は洋服が出来上がるまでの工程の中に仮縫いがありました。きょうはその仮縫いをしてまいりました。私がこれから舞台で着用するドレスの仮縫いです。

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実はこのドレスの生地は絹です。何故かと言うと、豪華な振袖でした。それも本振袖です。近所のデパートで開催された催しで見つけたこの振袖、朱赤の綸子地に美しい鶴の地紋があるので、どうしても欲しくなりました。鶴はおめでたい鳥です。実は私の人生にも鶴が沢山登場。誕生の頃に着た産着にも。お宮参りの掛け着にも、結婚式の打掛にも鶴が沢山飛んでいました。

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振袖は舞台衣装として着る予定だったのですが、パーティ等でも着られるように、ドレスに縫い直して頂く事にしました。その他、仮縫いにはいろいろな思い出があります。私が少女時分のワンピースは殆どオーダー。と言っても叔母の手作りです。小さな服なのに丁寧に仮縫いをしてミシンで仕上げます。

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私も小学校に入る頃にはミシンを踏んでいました。シンガーミシンです。あのミシンいま持っていたらアンティックで素敵たったのに。ミシンの置いてある西日が入る縁側、昭和も30年代の早稲田鶴巻町。そこには浴衣の母が微笑んでいます。
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あの日のように [回想]

もう真夜中なのに、今夜は眠気が全く起きません。もう少しブログを書く事に。昨日facebookのお友達申請にカナダの方らおられました。トロントからだそうです。そういえばもうもう20年ほどになりますが、カナダへ行ったことがありました。
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カナダへ行った6年前に話は戻りますが、その年1999年は大きな変化の年でした。勤め人から自営にと大きく変化した私と夫。ごわごわの起業でしたが、ブームに乗って、まさかの成果を上げることに。その後母を送る事となり、私は鬱々とした日々を送っていました。知人の勧めもあり、浦和の音楽教室へ通い始めました。その後の事はいずれまた書きたいと思ていますが、今夜はカナダ旅行の件を、思い出しながら書いてみたいと。

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私のカナダ旅行はまさに仕事の為だけの旅行と言っても過言ではないのですが、今からみれば良い経験でした。確か成田からは数人で出発した気がします。当時取引のあった輸入建材やさんと、そのお客さんが数名です。到着までどの位だったかは覚えていません。
到着したのは現地時間で昼位? 最初の食事は大きなハンバーガー、私は半分も残しました。その後いろいろ走りましたが殆ど記憶にはありません。

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最初に泊まったのは確か、バンクーバー。現地の担当者に女性がいらしたので、ちょっと安心していたのですが、結局夕食は独りに。男性は全員でお出かけ。私は彼女に教えて貰ったレストランで、チャウダーを食べてみました。確かに知人から聞いていた通り、美味でした。

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翌日は再び全員で車2台に分乗。海岸沿いの広い道路を超スピードで走り、目的の住宅地を見学。写真で見たような豪華な住宅が並ぶその一帯は、北米の中でも際立った高級住宅地だそうです。壁や窓の装飾も素晴らしく、只々見とれるばかり。中には入れないので、少し離れた住宅地にある、売り出し中の物件を見せて貰いました。

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一般向きとはいえ、玄関わきのニッチといい、3ベッドルームにプライトビーチやボート乗り場。羨ましいと言うより、この経験で得た知識を詰め込むことに余念がありませんでした。今後の仕事にとって大きな収穫だと思っていました。そうした日々が3日程続き休みの日になりました。男性軍は野球場のチケットが取れずゴルフに変更してお出掛。

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其処は確かシアトルだったと。 ホテルは建物の真ん中が中庭風だった様に覚えています。近所の大型スパーへ遊びに行くと、大きすぎてキョロキョロする私に、声を掛けて下さる家族連等がいたりして、飽きずに迎えを待つことができました。ホテルに着くと、近所の中華料理店(?)で食事した後解散。私は独り、ホテルのテレビでコメディーのような番組を見で過ごしました、乾燥が強い部屋に濡れタオルを掛けて眠りました。

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翌日は現場の見学他。私たちが最も興味深いウインドウ、木製ドア、ケーシングなどの装飾用部材、輸入住宅の中でも工法と同じくらい重要な品々を、真剣に見回りました。気密性の良いウインドウづくりの工場はとても興味深く観た記憶があります。こうして総勢が7名程度の私達は再び次の場所へと移動。移動はバスではなく現地駐在の男性が運転する車で。ハイウエイはスピードが出過ぎて怖かったし、すれ違うトレーラーは沢山の木材を荷台に乗せ、列車のように繋がって走っていました。そのスピードと存在感に驚きました。その日は再びカナダへと向かいました。同じ輸入住宅(日本での呼び方)でも北米とカナダではまた趣がちがうので、其れもいい勉強になった私。帰国前日はカナダのブチャードガーデンで、ゆっくり寛ぎ、その夜にカナダを発った気がします。

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帰りの飛行機はゆったりした席を用意して頂き、旅の疲れもなく帰国した私です。その時の経験は輸入住宅の営業をする上でも、輸入部材の問屋さんとのやり取りにもかなり役に立ちました。
海外へはこの他インドネシアへもゆきましたが、何故かカナダもイントネシアの旅も観光ではなくいずれもお仕事。体が健康な間に一度ぐらい観光で行きたかったのに。もうその機会はなさそうです。



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秋燃えの道 [シンガー]

長い人生でした。此処からはそう長くはないのだろうと思いながらも、いろいろな夢に余念のない私。どれもこれも可能性は低いかも知れませんが、夢が無い暮らしは私にとっては苦痛です。「何時かは実現できるかもしれない」と、今でも夢見がち(笑)

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さて先日のトラブルは手痛いものでした。悲しみが何時までも残るトラブルでした。食事も喉に通らない程でした。これからの人生を考えれば避けるべきトラブルでした。しかし体が治りかけ、部屋の掃除をしてゆくうちに、「あれでよかった」と思うようになりました。ただ、喧嘩の後の喪失感は体に悪いとつくづく思うに至りました。

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いよいよ待望の秋がやってきました。秋と言えば何といっても『落ち葉』。その落ち葉が降りしきる道を心躍って歩いた遠い日。私は秋燃えの道と呼んでいます。秋燃えの道は何処までも続く並木道。その一つが7歳まで住んでいた文京区にある音羽通り、音羽通は護国寺から江戸川橋まで続く長い道です。当時は都電が走り両脇に歩道がありました。長い長い並木道を私は3年間の間、護国寺にある音羽幼稚園に通っていました。普段でも大好きな道だったのですが。どういう訳かイチョウには特別の想いがあったような気がします。3歳で逝ってしまった父との朧げな思い出があったようです。

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そしてもう一つは北浦和にあります。それは県立近代美術館の裏手、閑静な住宅街に面した上り坂の美しい並木道。もう15年以上も前の事になります。秋が深まり始めた頃。私は北浦和の二木屋をめざして歩いていました。閑静な住宅街には殆ど人影もありません。だたはらはらとイチョウの葉が私の髪に背中に掛ります。その夜は薪能の夕べ。友人とは現地待ち合わせ。食事の後は能舞台の見える部屋に案内された私達。大勢のお客さんも庭に設けられた能舞台をぐるりと囲むような位置で見物しています。舞台が佳境に入った頃、大きな柿が一つ転がりました。燃え盛るかがり火の下へコロコロと。あれも演出だったのでしょうか。私達は何も言わずに幽玄の世界に浸っていました。

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