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旅路 [回想]

長崎生まれの父は将来、私と母を連れて長崎に帰りたかったのだと思います。その想いを母から聞いたのが10代になってからでした。二十歳になる直前、母は私を連れて長崎に行きました。目の前に大きなお寺のある父の実家は昔は作家や画家さんの定宿になっていたそうです。迷子になるくらい広い家。母がそう聞かせてくれました。しかし私が最初におばあ様に挨拶したのは暗い小さな部屋でした。昭和38年の事です。

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おばあ様は怖い顔をして私を眺めました。その顔を見て、私はこの旅行は失敗だと思いました。早々に引き上げて私たちはグラパー邸などの見物、その日のうちに東京行きの列車に乗りました。その時その数秒間、まさに劇的なシーンが展開します。普段着姿の細面の女性が出発間際の母の手をしっかり握って「いらっしゃっていたのですね。今、聞いたので!」と涙ぐんでいました。母とその人、言葉はありません。誰だろう~。今も私の脳裏に残るあのシーン。

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私の旅路はここからです。あれから56年の歳月が流れました。今後私の旅路を振り返って、子孫はいないけれど書き遺したい! そういえば15年ほど前にお逢いしたTさん、父の若い時分に似ていた気がします。多分あの方も30代頃でしょうか。その方の紹介文と共にネットのお写真を拝見してそう思いました。やはり九州の方だったのでしょうか。

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江戸紅型 [回想]

今晩わ。ようやく気持ちが落ち着いたので、このページへ戻ってまいりました。年甲斐もなく生きているのが嫌になりました。考えてみればその日はそんなに遠い事でも無いのでしょうが。この世を儚んだのです。去年の今頃は幸せいっぱいだったのですが、何故か今年は10月頃から不穏な動きが。その結果公私ともに辛い日々を送る事になりました。

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夏の頃は全く考えもしなかった環境の変化。生徒さんが激減。意味が分からないまま暮れを迎えました。年末の出費はもう致命的。お正月はお餅を買い忘れた程打ちのめされていました。しかし約12日ほどふて寝をして暮らしていると、仕方ない、また最初からやり直し。自らの声に励まされてその後は新しいい企画に没頭しました。

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今年はかなり気儘なお天気。誰かに似ている気がするけれど、私は兎に角マイぺースです。ただ不思議な事に喉の具合はかつて無い程良い気がします。せめてもの光明です。令和二年はこの街が、いいえ日本中が熱くなる年でしたね。心がとても疼きます。何かを起こしたい!何かを作りたい!しかし今は日々の暮らしで精一杯です。

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そんなこんなの日々ですが、壁に掛けた着物が2着。紺色の紅型、派手な柄行ですが。もう一枚は京友禅。此方は色白の娘さんにお似合いかもしれません。髪を結い上げ、紅型を着て出かけられたら…。もう一度生まれ直さないと(笑) 今の私が着れるのは箪笥の奥にある母の着物。いつか着て、出かけてみたいものです。


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柿食む頃 [回想]

暖かい部屋で食べる富有柿、父の大好物でした。しかし私は父のその姿は観ていません。乳飲み子の私を褞袍の懐に入れて神楽坂まで柿を買いに行った父。当時の住まいは音羽、講談社から100m程江戸川橋寄りの辺りです。この時期、冬将軍が近づくころ富有柿が美味しい頃ですね。

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思い出は、私の人生にとってとても大切です。いいえ言い換えればその頃の私が一番幸せだったのかも知れません。父の望みは私に編集者にさせたかったようです。其の訳は、当時の父の勤め先は丸ビルの確か『経済情報社』、同僚のT夫人はとても優秀な編集者だったそうです。父は私をその夫人のような編集者になって欲しかったようです。そこで幼稚園から将来を視野に入れて、父は当時の女高師(お茶の水女子大の前身)を目標に、私を4歳から音羽幼稚園に入学させました。

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しかし父亡き後は其のことは忘れ去られていました。ところが17歳になった頃、当時の女学校の数学の先生、K先生から、先生の母校のお茶の水に推薦するとのお話を頂きました。条件は其の女学校の数学の教師になる事でした。K先生と同じ道を進めて下さったのです。しかし運命とは…、皮肉な事に当時の私は、祖母を亡くしてから放心状態の日々。私はその幸運を少しも喜ぶことなく、母や世間に反抗して今で言う引き籠りの日々を過ごしていました。

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あれから半世紀も経た今、私は父の夢を叶えることなく、またまた人生の迷路を彷徨しています。何回目でしょうか、今はもう彷徨う事が辛くもありません。ゆらゆらと揺れる心模様を案外楽しんでいる私。

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昔のように何事も真正面から取り組むことを止めました。見えないものがあっても分からない事が多くても、そこそこの回答があればそれで今は満足です。身の丈とは謙遜ではなく、一番ふさわしい、当人にとっても一番快適な環境かも知れません。

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今、私は身の丈に合った居心地の好い環境で大好きな歌を教え、歌詞を書き、果たせぬ夢でもいいから頑張ろう~と。秋も深まり、そろそろ冬将軍がやってきます。遠い日に夢見た沢山の想い、今も目をつむれば見えて来ます。銀杏並木の坂道も、屈託ない素振りで微笑むあの笑顔、笑顔も。

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仏壇に供えた富有柿。お父さん、私はあなたの娘です。貴方の見た夢を今でも引き継いでいます。
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弟へ送る言葉 [回想]

弟へ。確かな証拠はないけれど、貴方の事は弟だと、逢った瞬間そう思いました。ずいぶん昔の話です。其の頃私は6歳の子供の母でした。 リュックサック姿が部屋のドアの前に立った時、私の驚き様ときたら、しかし男の子は元気に「お母さんこんにちわ!」Mちゃんは5歳、幼稚園の年中組。 P5310311 (3)syuusei.yy88.02.jpg ママと呼ばれた私は40歳の秋になっていました。そして驚くべきことは夫とは結婚(同棲?)して1カ月未満。驚くというより身震いをした私です。更にMちゃんには軽い小児喘息があると聞き、私はスイミング教室へMちゃんを連れて行きました。大喜びのMちゃんは、プールの中で手を振って「お母さん~」と。しかし彼の滞在は一ヵ月ほどで、再び実母の再婚相手の家に戻って行きました。3歳違いのお兄ちゃんに逢いたくなって戻ってゆきました。 P6030621 (3).yy88.1600.jpg 其の頃の私は日比谷にあるオフィスから八重洲の会社に転職。その道のプロだけのオフィスは私にとっては夢の様でした。しかし一方、家に居る筈のあの子が急に恋しくなったりと、40歳を超えた私に俄かですが母性が芽生えたりしました。そこで思い出したのです。あの子を送り迎えしたスイミング倶楽部の近くのレストランを。友人はあそこを隠れ家と呼んでいました。道ならぬ恋の二人がお忍びで行くその場所は、東京と埼玉を隔てる道の途中にありました。 P4250239ps77.yy88.1280.jpg ある日、ふと思い出してその隠れ家に足を運んだ私、隠れ家の裏手にある音楽スタジオを覘く事になりました。Mちゃんが去ったあとの空虚さを埋めたいと思たのです。スタジオにいたのはまだ若い男性。無口だと思ったその人が口をきいたのは、一曲目の歌が終わった時、もっと違う歌にしたら…、と。貴方の声はクリアーな声だと言います。これからはそういう声で演歌を歌う事になるかも知れません!きっぱり言い切った男性。 P6030601.yy88.1500.jpg 歌を続けてみよう、私はそう決心して何回か通いました。しかし運命はいつも残酷です。夫が心筋梗塞で倒れたのです。ドクターは今夜が危ないと。しかし優秀なドクダーのお蔭で2ケ月程の入院ですっかり体調を戻した夫は仕事に戻りました。音楽教室へは看病のために休ませてください。そう伝言したままもう行く事はありませんでした。 P4250237 (3)ps800.jpg そして20年程の歳月が流れ、私は再びその人に偶然出会う事に。まさに奇跡です。そして数年の歳月を経て、ある日ぶっきらぼうに『僕の事、弟と思ってもいい』その人が言いました。 弟が出来た!私はお姉さん!それからの10年はあっけなく過ぎ、今、私はまた一人。夫の連れ子だったMちゃん、今頃は人の親になっている事でしょう。私は、幼くして父を亡くし、母も、夫も。せめて弟だけは…そう思っていたのに。秋の夜長、猫達の恋の季節になりました。今夜は起こされずぐっすり眠りたい私です。

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あの日のように [回想]

もう真夜中なのに、今夜は眠気が全く起きません。もう少しブログを書く事に。昨日facebookのお友達申請にカナダの方らおられました。トロントからだそうです。そういえばもうもう20年ほどになりますが、カナダへ行ったことがありました。
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カナダへ行った6年前に話は戻りますが、その年1999年は大きな変化の年でした。勤め人から自営にと大きく変化した私と夫。ごわごわの起業でしたが、ブームに乗って、まさかの成果を上げることに。その後母を送る事となり、私は鬱々とした日々を送っていました。知人の勧めもあり、浦和の音楽教室へ通い始めました。その後の事はいずれまた書きたいと思ていますが、今夜はカナダ旅行の件を、思い出しながら書いてみたいと。

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私のカナダ旅行はまさに仕事の為だけの旅行と言っても過言ではないのですが、今からみれば良い経験でした。確か成田からは数人で出発した気がします。当時取引のあった輸入建材やさんと、そのお客さんが数名です。到着までどの位だったかは覚えていません。
到着したのは現地時間で昼位? 最初の食事は大きなハンバーガー、私は半分も残しました。その後いろいろ走りましたが殆ど記憶にはありません。

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最初に泊まったのは確か、バンクーバー。現地の担当者に女性がいらしたので、ちょっと安心していたのですが、結局夕食は独りに。男性は全員でお出かけ。私は彼女に教えて貰ったレストランで、チャウダーを食べてみました。確かに知人から聞いていた通り、美味でした。

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翌日は再び全員で車2台に分乗。海岸沿いの広い道路を超スピードで走り、目的の住宅地を見学。写真で見たような豪華な住宅が並ぶその一帯は、北米の中でも際立った高級住宅地だそうです。壁や窓の装飾も素晴らしく、只々見とれるばかり。中には入れないので、少し離れた住宅地にある、売り出し中の物件を見せて貰いました。

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一般向きとはいえ、玄関わきのニッチといい、3ベッドルームにプライトビーチやボート乗り場。羨ましいと言うより、この経験で得た知識を詰め込むことに余念がありませんでした。今後の仕事にとって大きな収穫だと思っていました。そうした日々が3日程続き休みの日になりました。男性軍は野球場のチケットが取れずゴルフに変更してお出掛。

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其処は確かシアトルだったと。 ホテルは建物の真ん中が中庭風だった様に覚えています。近所の大型スパーへ遊びに行くと、大きすぎてキョロキョロする私に、声を掛けて下さる家族連等がいたりして、飽きずに迎えを待つことができました。ホテルに着くと、近所の中華料理店(?)で食事した後解散。私は独り、ホテルのテレビでコメディーのような番組を見で過ごしました、乾燥が強い部屋に濡れタオルを掛けて眠りました。

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翌日は現場の見学他。私たちが最も興味深いウインドウ、木製ドア、ケーシングなどの装飾用部材、輸入住宅の中でも工法と同じくらい重要な品々を、真剣に見回りました。気密性の良いウインドウづくりの工場はとても興味深く観た記憶があります。こうして総勢が7名程度の私達は再び次の場所へと移動。移動はバスではなく現地駐在の男性が運転する車で。ハイウエイはスピードが出過ぎて怖かったし、すれ違うトレーラーは沢山の木材を荷台に乗せ、列車のように繋がって走っていました。そのスピードと存在感に驚きました。その日は再びカナダへと向かいました。同じ輸入住宅(日本での呼び方)でも北米とカナダではまた趣がちがうので、其れもいい勉強になった私。帰国前日はカナダのブチャードガーデンで、ゆっくり寛ぎ、その夜にカナダを発った気がします。

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帰りの飛行機はゆったりした席を用意して頂き、旅の疲れもなく帰国した私です。その時の経験は輸入住宅の営業をする上でも、輸入部材の問屋さんとのやり取りにもかなり役に立ちました。
海外へはこの他インドネシアへもゆきましたが、何故かカナダもイントネシアの旅も観光ではなくいずれもお仕事。体が健康な間に一度ぐらい観光で行きたかったのに。もうその機会はなさそうです。



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宇宙の塵 [回想]

人間はどこからきて何処へ行くのか。誰でも一度はそう考えるのでしょうね。先日みた宇宙についての番組。宇宙が出来始めた頃、ブラックホールから生命の元になる物質が噴出された…等と言っていたような気がします。

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その番組を見ている内に想った事は、ではすべての生き物は灰になり宇宙に飛んで行くのだから、やっぱり何れはこの地球の何かの生き物になって、再び生まれてくるのかも知れないな、等と意味不明な解説ですが、それほど孤独の私は命について考えています。

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人は誰でも孤独です。しかし私の場合はそれが嫌いではないので益々孤独になって来ました。昨日の事です。祖母の命日でしたのであれこれ好物を作って仏壇に供えていました。その時ふと思い出してある書類を持ち出した私、この書類は15年ほど前に集めた母方父方のルーツ。古い戸籍謄本を眺めながら私自身のルーツから何かを探してみたいのです。何かしら興味のある事実を見つけたいと言う思いが再び出たのです。

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その事実とは祖母のある言葉から出た疑問です。今では殆ど使われいない言葉です。私はホームページの更新はそこそこで済ませ、祖母の故郷茨城県の大宝町について調べてみることにしました。以前市役所の方の添え書きからどうも結城に何かの縁があったようです。ますます興味がわいてきました。


 
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ローレライ [回想]

それは期末試験の日でした。当時通っていたのは文京区にある私立の女学校、その年の春に入学したての私は、背は小さく案外寡黙でした。その期末試験に音楽と言うのがあり高橋先生が担当でした。

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高橋先生の通常の授業ではコールユーブンゲンを使った練習と、クラシックを聴き作曲者を充てる問題や、使われている楽器を聞き分ける問題などでした。しかし期末試験は案外簡単で先生のピアノで一人づつ歌うテストでした。課題曲はローレライ。

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其の頃の私、身長は忘れましたが、クラスで一番小さかった気がします。さて肝心のテスト風景ですがピアノを弾く先生の側にたった小さな私、先生が弾くローレライを歌い始めたのですが、キーが高すぎて上手く歌えません。泣きそうになる私に先生がこう仰ったのです。「じゃあ、これでもう一度歌ってごらん」キーを下げたのです。周囲の生徒は驚きました。殆んどの人がそのままなのにと。

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こうして異例の扱いで私はローレライを歌い、先生は良くできたと、なんと通信簿には10を下さいました。その後、先生の勧めで同校の聖歌隊に入り学校音楽コンクールなどへも参加してきました。

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あの件がなければ、私はきっと一生歌を歌わなかったかも知れません。一方自宅へ帰れば母は歌謡曲はもとより小唄、端唄、都々逸、さのさ等の俗曲、さらに詩吟、民謡。これらのお稽古を私を相手にするのでした。社交ダンスも教えてくれたし日本舞踊のお稽古も二人で行きました。

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そんな家庭環境の私は学校音楽があまり好きではなかったのです。しかし高橋先生のお蔭でその後は女学生らしい音楽を沢山覚え沢山歌う事になります。あの時のローレライを歌えたことが今の私の道へと繋がった(かしら)。神様のお仕事に無駄はないですね。半世紀前の出来事は私の将来を見据えた故の一幕だったのでしょう。皆様はどうお考えですか?

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今日の写真は小江戸川越にある八幡神社で撮らせて頂きました。



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