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命の洗濯 [歌謡教室]

T子さんが入門してから5年、今は昔からの友人のように仲良しです。ここ数カ月の私の体を随分心配して、きょうはご自宅へ招いて頂きました。共通点は私も彼女も「江戸っ子」豊島区生まれと文京区生まれの二人です。今思えば彼女の家と、私が通っていた小学校とはかなり近かったようです。


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帰路、母の好物の草餅を買って家に戻った私ですが、もうやめようと思いながらも、またもや裏木戸から部屋に戻りました。最近の私は正面玄関からは殆ど出入りしていません。怖いからです。その場所では胸を打たれたり手首に怪我を受けたりと、痛くて怖い仕打ちを受けた場所だからです。もし自分が逆の立場だったらどうするのかと考えたりもしましたが、何があっても私自身は、人に暴力は振るわないと断言できます。


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世間の方々は、その生涯で、暴力など受けたことのない人が殆どだと思いますが…。私も何故、自分が暴力を受けたのか、何回も何回も受けたのか、未だに理解できません。そんなこんなで家探しをしていた私でしたが、予想外の経費を聴いて、さすがに怖気ずいてしまい、中断です。URでは65万円、市中の不動産屋さん数件をお聞きしてみても、やはり50万円位はかかる様でした。


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私は本当に情けない人間です。この年で50万、60万に驚くなんて。もう言い訳が通用しない年齢です。しかし現実は現実。家を手放したあの日から、わたしはもう普通ではないのかもしれません。夫が亡くなった後の家には毎日いろいろな人が押しかけ、脅かされたりもしました。家を手放さなければ、命さえ危なくなってきたのです。仕方なく家を手放し夫の借財を返済。その後、私は現在の住まいに引っ越してきました。周囲の暖かいご厚意に甘え、今日迄生きてきました。


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この7年間は夢のように過ぎ、老境に入っても臆することなく、楽しい日々を過ごしていました。その暮らしが地震のような音を立ててグラグラと崩れたのは2021年の4月からでした。不可解な暴力の数々。私が言う『暴力』という言葉に多くは同意を頂けないまま、我が余生の日々は、暴行一色に塗られました。2021年4月29日から6月24日迄で、合計8回に及びました。体中の痛みと、心の痛み。その中で私はもがき続けました。


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そんな様子に教室を去る方もありましたが、私を元気づけるようにレッスンに来て下さる方も沢山おられました。そうして丁度10か月。私の決心は、転居でした。これ以上体がもたないと感じたからです。しかし、これが運命なのかと思うほど、家探しは難航しました。物件上のアクシデントもありましたが、購入者の私、その資産のなさに我ながら吃驚。勿論家を買うわけではなく借りるだけなのに大まかにいえば、引っ越し代を入れると100万円前後は必要だったのです。


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自分の不甲斐なさに死さえも脳裏に浮かびます。しかし私はまだ生きたい!このまま死ぬなんて絶対に嫌だと。その結論をもって出直すことになりました。然しこの先、本当に生きて往けるかどうか、まだまだ自分でも分かりません。いまの2倍も3倍もの努力が必要ですね。


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そういえば、帰路の道すがら夏の夕暮れに咲く花、『夕顔』に出会いました。いいえ若しかしたら夕顔に似た花だったのかもしれません。幼い日々を暮らした早稲田の家の庭、沢山の花が咲いていました。縁側で祖母と遊ぶ私がいました。今の私、祖母よりもう5年も多く生きています。さて、どうした事か今夜は心穏やかです。昼間お邪魔したT子さんの御宅、あの居心地の良さが未だ続いているようです。「T子さん有難う~ございます。私、命の洗濯が出来ました!!


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小江戸の春はまだ遠い [シンガー]

暫くぶりの投稿になりました。昨日漸く、ワクチン接種のお知らせが届きました。前回同様にご近所の医院で受けたいので、早速連絡。2月末頃、受けられそうです。立春まじかになった今日この頃ですが、三寒四温の春雨までは,まだ遠いかもしれませんね。そんな中、78歳5ヶ月になった私は、体中の痛みに耐えながら、忙しく動いています。勿論,そのほとんどは仕事ですが、時間をみながら今後の棲家を探しに奔走しています。


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何故この歳になってまで「転居」などをするのか、自分でも些か首をかしげることもあります。が、しかしこのまま、あの恐ろしい暴力の餌食にはなりたくない!そう思ったからです。それと、環境を変える事で、創作への意欲も高まるかしら…、等と言う考えもあります。本当に、人生は思うほど長くはありませんね。時が早いのか、私がのろまなのか。どちらにしても60代には歌手にも作詞家にも挑戦し、願いも叶い創作へのパワーも高まっていたのですが、70代も後半になった私が、予想もしなかった暴力に出会う羽目になったのは何故だったのでしょうか。


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2021.04のある日、転入してきた隣室の女性に「猫ちゃんを虐めないで!」と私。その小さな事件が8回にも及ぶ暴行に繋がり、そして私は終の棲家として7年間前から住んで居たこの住まいを自ら出る羽目に。勿論去る事への拘りや悲しみは、筆舌に尽くせない程、あります。しかし今は言葉に出すことが出来ません。此処まで私をも守って下さったご厚情に対して、感謝!の一文字ですべてを言い尽くせるわけもありません。只々、熱い涙が総てを物語っている私です。今後の暮らしは覚悟の上ですが、全てが軌道に乗るまでには数年の歳月が必要かも知れないと、覚悟はしています。


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今後のスケジュールは現在とあまり変わりませんので、生徒様にもご迷惑を掛けずに過ごせると思います。只、私の住む家がなかなか決められず、どうしたものかと思案をしています。夫が無くなって丁度10年になりました。此処でもう一度住まいを移転することは、本来であれば避けたかったのですが、万が一、昨年同様の暴力を振るわれ、体が今以上衰弱してしまう事を恐れた私の、独りよがりの転居です。その費用もかなり掛かることが分かってもなんとかして転居はしたいのです。


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2015年8月に転入してから6年5ヶ月、沢山の思い出と沢山の哀しみ。生まれて初めて誰も知らない街で暮らす事になった私でしたが、何時しか家族のように暖かい環境で暮らさせて頂きました。今回の事の原因が何処にあったのか、随分考えましたが分かりませんでした。しかし何時の日か、今回の哀しみの中から何かが見えてくるかもしれませんね。小江戸川越、春まだ浅いこの街は今でも私の『第2の故郷』※尚、お教室は今まで通りに営業致します。

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古地図に馳せる想い [シンガー]

私が初めて川越を訪れたのは13歳の時です。文京区にある女学校に入学した私は、教室で隣の席に座ったINさんと仲良しになり、彼女の誘いで、西武池袋線で、川越をおとづれました。13歳の私は新宿区早稲田鶴巻町に祖母、母と暮らしていました。初めておとづれた川越の街を彼女の案内で歩きましたが、一番印象に残ったのは彼女が卒業した小学校。その思い出は、二人でブランコの下で撮った写真です。そして2回目の訪問は、池坊お茶の水学院生だった23歳の時。


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当時私の家は下宿屋さんを。早稲田大学生が多い下宿屋でした。ある夏、大勢の学生さんの一人、Tさんの友人、Yさんに誘われて、川越市霞が関、角栄団地にある家で、夏の一日を過ごしました。そして10月、私達は大隈会館で、挙式を上げました。新居は川越市霞が関になりました。生まれ故郷の東京を離れた私は、数カ月で里帰り。心配した母は、二人で暮らせるように母の家の裏手に小さな家を建てました。その後しばらくは川越には行かなかった私でしたが、結婚7年目に夫の意向もあり、霞が関の家を建て直して、二人で住むことに。私、30歳まで後わずかになった頃です。


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その後、母も東京の家を売却、川越市霞が関に転居しました。当時の我が家と母の住まいは10分ほどで行き来ができ、母はご満悦でした。家の前の公園には八重桜があり、母はとても喜んでその花を愛ででいました。そして30年が過ぎ、私と母に起こった様々な思い出と共には母89歳で他界。私は再婚して母の家を守り続けました。


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けれど運命は残酷、母の他界から10年後、今度は夫が逝去。私は一人になってしまいました。その頃の私は新人の歌手として地元はもとより、神奈川や東京で歌っていました。夫の生きていた時はTVにも出たりと、人生で一番華やかな時期を過ごしていました。ところが夫亡きあとの私に、恐ろしい事件が次々。夫が無くなって2年近くになった2014年、いろいろな出会いがあって、歌謡教室のスタート、翌年は自宅の転居と。私は現在の住まいに暮らす事に。それから6年が経ち、私の身に思いもしなかった事件がおこりました。それまでの私は、自分の人生とそれを導いてくださった周囲の方々に感謝をしていたつもりでした。もっともっと頑張って、頑張って! その願いだけで77歳を迎えた頃です。そしてあの恐ろしい、2021年4月がきました。


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4月になって長い間空き家だった、隣室にA子さんが入居。その数日後、彼女からの暴力がスタート。最初は猫を蹴り飛ばす彼女へ、「止めて!可哀そうじゃない!」この言葉が私の運命をぐいぐいとひぱりました。暴力は4月から夏ごろまでで、通算8回。その後もいろいろありました。私は暴力の度に警察迄タクシーで駆け込みました。然し証拠がないと、最初は話も聞いて頂けませんでしたが、度重なる暴力に、時としては刑事さんやその他の方が耳を傾けて下さいました。暴力で受けた頭や、わき腹、手首、胸、身体の痛みがあったものの、コロナ禍の下で、治療を受けたくとも状況的には病院へ行くチャンスがない私でした。



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そして、年が明け2022年になりました。静なお正月を迎え、去年の悪夢が少しづつ治まったかのように思えましたが、しかし、何もない筈はありません。クレアモールパークで、マンションの玄関で、A子の恐ろしい顔をみると、私は身震いを覚え、体が硬直するような感じが。もう駄目!ここを離れよう~と。しかし少しばかりの年金では引っ越しなどは到底出来ません。ここ10日程川越のあちこちを歩き回り、転居の可能性を考えてきました。以前購入した「川越城下重ね地図」を眺めて、遠い日の川越で暮らした人々へ想い馳せて、今の自分を考えてみました。


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この伝統の街、私の第二の故郷。しかし、今。ここにはもう私の住む家が無い! 逃げよう~、「いいえ、逃げたは駄目!」。母なら、今の私にどういうのでしょうか? 庭の柏葉紫陽花も、平戸つつじも、私と一緒に、此処での暮らしを謳歌しましたね。さよなら第二の故郷と、私は未だ言いたくないのです。「川越城下かさね地図」、もう一度この古の地図の町々を歩いてみたい!熱い血が私の中に今も流れています。


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春待つ女 [シンガー]

またまた変な事件が起こりました。それは12月31日から始まりました。我が家では、大晦日には毎年忘れずにする事があります。それは、『一陽来復』をまつる事です。その年の恵方に向かってお札を張り替えおまつりします。昔は母と私が、牛込の穴八幡宮までお札を頂きに行きました。今は幼馴染が送って下さいます。


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元旦の朝、一人で食べるお雑煮は何故かとても虚しいものでした。その悲しみはもう6日も続いています。3日前の事です。夕暮れ時でしたが、仕方なく爪切りを買いに出かけた私、案の定、あの女性に出会いました。彼女はいつもの公園の角で、仲間と一緒で、珍しく大声で燥いでいました。真っ赤なコートを着て上機嫌。


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私は大通りまで出で買い物したいので、仕方なく公園に沿って歩きました。彼女は一人の男性と一緒で私をじっと眺めていました。その時、私は急に身震いを覚えました。彼女の恐ろしい手首への暴行からはもう6カ月たっていしたが、この寒さでっ始終痛みます。そしてマンション玄関で待ち構えていた彼女から受けた、手首への暴力、あの心臓が止まるような痛さ思い出され、激しい怒りを覚えました。彼女がした暴力行為は手首を入れて8回、言葉もありません。警察へはいくら届けても、彼女は暴力行為は認めず、私から虐められたと言って泣きながら上司に訴えているそうです。


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彼女に出会ったその深夜、私は急に体が震え、彼女が仲間を連れて来て私は襲われるような気そんな気がしきりにしました。庭に出て彼女の部屋を眺めました。その時カーテンが動いたので、私は恐ろしくなって110へ。本当に今度こそ殺される、そう思って「外に出たいので、此処に来て欲しい」とお巡りさんに懇願。10分ほどして2人のお巡りさんが。「今夜は怖くて家に居られないので、ホテルに泊まります。家を出る瞬間、また彼女に襲われそうなので、外へ出る私をフォローして下さい」と懇願しました。。確かに6/24に彼女から受けた手首の暴行。言葉に表せない程ひどい痛みでした。


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そして2件のホテルを廻りましたが断られ、仕方がなく家の近くのカラオケボックスへ入った私。お正月なので、お店は夜中でも大勢のお客さん。最初は、死人のような顔で入館した私ですが、楽しそうな歌声に「そうか、歌ってみようかな」等と、実に不思議ですが歌い始めました。使い慣れないDAMですが、音も良くマイク無で充分楽しめました。人は、歌う事で無限のパワーを引き出す気がします。ここ一カ月ほど殆ど歌わなかった私が、歌い続けるのですもの。胸が痛くて殆も声が出ない筈の私が…昔のように歌いました。そして時計は午前5時に。



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外に出てみると、昼間ほどではありませんが、思った以上の人波です。家までは5分程で戻れるのですが、戻るのがまだ少し怖い私。一度、西武線の方へ歩き、飲み物を買って我が家に戻りました。それにしても時々起こる気分の悪さと、海の底に居るような静寂感。私の命の灯が消えるようにも思えたり。少し前までは暴力に負けづ頑張ろう~。2022年からは前向きにどんどんトライしてみよう~。そんな夢を描いていたのですが、彼女の暴力を肯定する人々に囲まれた今、心は砕けてゆきます。   再びの 春に焦がれる 小江戸の彩女  Miyako

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夢か現か小江戸の灯り [シンガー]

本当に楽しい一日でした。いいえ偶然が成せる業では無かった気がします。あの方の感性は流石、大空を超えて、すべてお見通しのようでした。その甲斐あって、今日の私、たゆとう時間がながれていました。


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何という事もないのです。飛び切り嬉しそうな様子もなかったけれど、話す言葉もその仕草も今までにない、素の姿に見えました。いいえ、そう思いたかったのは私だけだったかもしれません。街の灯りも何故かいつもの其れとは違い、暖かくて、優しくて…。以前歩いた頃は浅い春の事。喜多院の桜が綺麗でしてね。また或る時は粉雪が舞う夜、武蔵野の庭に面した長い廊下で、貴方は佇んでおられましたね。遠い昔になりました。


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人は一日一日をどこに向かって歩いているのでしょうか。かつての私はいつもその道を迷ってしまい、堂々巡りばかり、気がつけば、私はいつの間にか独りぼっち。あれからもう17年近い歳月が流れました。いまはこの街で暮らして居る私ですが、街の灯があんなにめらめらと、まるで恋する乙女のように燃えるのを観たことはありません。


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美しく灯した街のあかりもあれば、危ういほどに燃え盛るの薪能の夕べ、懐かしくもあり、悔い多き夕べでもありました。燃え盛る炎のように私の心にも燃え盛る何かがあった筈。遠い日の思い出は一生涯、忘れられないものです。いま冥途への道を、足早に歩き続ける私。この道の向こうにある世界は、この間の街の灯りのように、心華やぐものなのか、それともあの篝火のように、燃え盛ったかと思えば、風のまにまに炎が揺らめくような、危うい処なのでしょうか。でも私、また一つ、いい思い出を残せて幸せです。


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翌日の事、川越駅で素晴らしい夕日に遭遇しました。眩いほどの夕日、すべてのパワーを受けて、私は確信したのでした。来年は「きっといい年になるのね」と。




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葉書き、それはワンダフル! [回想]

久しぶり部屋の中を丁寧に掃除してみました。いつもなら、何かが見つかるものなのですが。例えば、少し前の時にはノートの中からクリーム色の封筒が。宛先は大切な知人。裏書には今の住所と日付が。2016年の日付でした。そして今回は私宛のハガキ、達筆な文字は小学校の時の担任、N先生。4年生から6年生迄の三年間をお世話になりました。同級生の中には、卒業以来ずっと先生への年賀状などを出していると聞いて、少し恥ずかしく思ったその年、私も出しました。


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手紙は本当に、相手の心に伝わるようですね。昔、その手紙の事で、とても悲しい失恋をした思い出があります。随分昔の話ですが。あれはTMさんという女性からの一言でした。「好きな人に、自分の心を伝えたいの、手紙を書きたいのですが、どう書いたらいいの?」そんな内容でした。そこでお節介な私が提案したのは、『葉書き』に書いた絵手紙でした。シンプルに、押しつけがましくなく。そしてその恋が成就して、彼女はその方と結婚式を上げました。しかし私は心から「おめでとう~」とは言えない複雑な気持ちでした。心を伝える、難しい事なのですね。


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その件があってから、私は手紙が嫌いになってしまいました。今はこうしてブログの中で、時々の想いや悩みを吐露しています。お返事は皆様から頂くnice!です!(^^)!。これからもどうぞ宜しくお願い致します。


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小江戸から大江戸へ [シンガー]

久しぶりに都内迄。E子さんからのお誘いを受け、有楽町線、護国寺で待ち合わせ。10:07川越駅を出て、目的の護国寺までは約50分。彼女とは6月以来。で、目的はというと、私が「黄色く色づく銀杏が、はらはらと風に舞う姿を観たい!」と、しきりに訴えていたからです。


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そして約束の24日がやってきました。護国寺境内は人影も少なく、紅葉した桜の樹を始めとして、晩秋の色を濃くして私を迎えてくれました。境内を右に回ると、懐かし音羽幼稚園があります。昭和22年、私はこの幼稚園に父の希望で入園、父の夢は現在のお茶の水女子大学に入って父の同僚の奥様のような優秀な編集者になって欲しかったのです。私は小さな時から父の遺言を、母から聴きながら育ちました。


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E子さんと私が次に向かったのは、音羽を転居後、私たち家族が暮らした早稲田鶴巻町。此処で小学1年生から暮らしました。そして転校が嫌な私は、わがまま言って、音羽時代に通っていた青柳小学校まで、都電を利用して3年生の一学期迄通い続けました。


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遠い日の思い出は、掴みたくても掴めない蜃気楼のよう。鶴巻町で昼食を摂ったE子さんと私、今度は早大正門通を大隈講堂へと向かいました。大隈講堂の辺りは少し変化もありましたが、やぱり懐かしさにうるうると。その後、大隈会館の脇道を通って。昔の都電の終点へ。此処を「小さな旅」の終点にして私は高田馬場から西武線で本川越へ無事帰宅致しました。


 






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それは束の間 [シンガー]

ここの処、小春日和が続いたせいか、体調も良くなり、庭に出て花の写真を撮っていた私です。其処へ今度も縁側に。例の太い竿につるされた洗濯物を吊るす大きな道具、それを竿から外していました。そこで私が穏やかにこう聞きました。「何で何回も私に……」と言いだした途端、物凄い形相になり、そのまま縁側から飛び降りて、私を襲って来そうな様子でした。彼女、洗濯物が体に巻き付いたのか、急いで部屋に引き返しましたが。


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この分では、まだまだ私への暴力を続けるつもりなのだと、確信した私です。背丈もあり、腕力も強い彼女からの暴力は、間違いなく生命への危険があります。前回、痛めつけられた脇腹、頭頂の右側、胸板、手首には今でも激しい痛みがあります。痛みの為に私の表情も歪み、10歳も20歳も年を重ねたような顔が手鏡に映ります。その度に私は『絶望』という文字を心の中で綴ります。


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そんな日々が続いたある日、コンビニへ買いに出かけた私、向こうからくる男性と目があいました。あの方です。しかしそれはいつものあの方ではありませんでした。初めてお目にかかった10年ほど前のあの方です。溌溂とまるで年齢を感じさせない歩き方。「まさか、嘘!」と私。「今日は教室?」「はい、今日はSさんです」。「あ、そうか」。すれ違いのほんの数秒、私たちは何の屈託もなく、微笑みさえ見せながら、その束の間の時間を共有したのでした。

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その日までは、街に木枯らしが吹く頃までに転居を決めようと考えていた私ですが、その時、それが杞憂に終わる事さえも、私の心は思い描いていたのでした。然しすべては神様の御心のまま!まだまだ大団円ではありません。


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銀杏並木に… [シンガー]

あぁ~、どうしてこんなに思い出されるのでしょう。はらはらと風に舞う銀杏の並木道。私の人生で思い出の銀杏並木は2ケ所あります。一か所は7歳まで住んでいた音羽通りの銀杏並木。もう一つは北浦和の二木屋さん(薪能鑑賞)への道でした。音羽通りは4歳の私が毎日歩いた大通り。そして北浦和の銀杏並木は人生最後のメルヘンでした。


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遠い日の思い出は幾つになっても麗しいものですが、目を転じて、今を直視してみると、私の2021年は最悪な年になってしまいました。お正月から何となく不具合も多く、理由が見えない程の異文化からのクレーム。事情も分からないまま、自分が今までの位置から追い出されるような不安を感じていました。そしてあの事件が4月29日に起ります。


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住まいのマンションの隣室に、A子が転入して数日後、庭で猫をせっかんする彼女を発見。その暴力を注意した事から、あの恐ろしいA子から私への暴力の日々が始まりました。猫への足蹴りから始まり、翌日は弱電流を流して退治する猫よけ柵の設置。


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何という人なのでしょうか。猫を蹴り上げた他に、今度は電流でショックを与えられた三毛ちゃん。数日は動けなくなり、ボランテアさんの看病受けた模様。私が心配で見に行った時も、雨に濡れたわけでもないのに、体中がべっとりとなり、綺麗な毛並みが体に巻き付いた感じ。身動きも出来ない様子でした。余りの残酷な姿に、庭越しに『柵を外して欲しい』とA子に伝えた私です。


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其処から暴力がはじまり、①自転車を脇腹にぶつけられた。②洗濯物を干していた私の頭上にA子から太い物干し竿。強烈な打撲を右側頭上に。③マンション玄関のガラスドア、その枠で私の胸を強打したA子。④庭で写真を撮っていた私の右耳に、強烈な音響。救急車のような音が耳をつんざくように入って来た。(この件は翌日耳鼻科。)


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つづき、 ⓹6/24夜、8時ごろ2人の男性がドアを叩き、所要があると導かれたマンションエントランス、待ち構えていたA子は私の右手首をひっぱり、その後爪で血管をつまみ上げ捻じる。何回も何回も薄笑いを浮かべて暴力を続けるA子です。その後、手首の脈を図る辺りを、爪で縦に切る格好を。手首への痛みで気絶しそうになった私をみながら、さらに暴力を繰り返しました。余りの痛さに悲鳴を上げた私の手のひらに、携帯電話を載せてその暴力が終わりました。携帯電話の主は彼女の上役。私は翌日、警察へ行ってこの手頸への暴力を訴えました。

 



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今の体力では何処かに移転をして自力で生きる事はもう無理かもしれません。しかしこのような結末を迎える自分の生き方、大いに反省です。私はこれから何処をさ迷うのでしょうか。いったい何処へ行こうというのでしょうか。神のみぞ知る。

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女には『越えられない山』がある。 [黄昏は麗しく]

毎日のように、まるで仮死状態になる私。そろそろ年貢の納め時なのでしょうか。隣室の鬼女の攻撃を受けた日々から4カ月経ちました。彼女のスポンサーから先日、「A子は貴方が言うほどひどい事はしていない!」と言われました。どうじに「出て行け!」とも。いつでも彼女をかばうのです。仕方ないですね。わたしには男女の機微は分からないようです。

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何回も何回も警察へ届けても証拠が無いと言われ続けました。その為、彼女の暴力は続きました。しかし6月24日の手首への暴力では、彼女の会社の男性2人が同席していたのです。これにはびっくり。この事は立派な証拠の筈ですが。許せない事例です。

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用事があるからと迎えに来た2名の男性。ついてゆくとA子が玄関ドアの所にいました。吃驚した私の不意を突いたA子は、私の右手首を自分の脇腹近くに強くひっぱり、手首を表にしたり裏にしたりと。彼女がこのような特技を持つことが何故できたのか、後に知った私ですが。その時はただ怯えて身を細めて佇んでいました。

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手首の骨をぐいぐい締め付けたり、脈を取る辺りの血管を指でつまみ強く捻じったり、爪で押したりと、痛すぎて声も出ず頭がぼーとなりました。また息苦しくて倒れそうでした。かなり長い時間を痛めつけられていた気がします。A子は薄笑いを浮かべたり、恍惚状態になっていました。私は痛いのですが、不気味な彼女の行動に、女の内にあるおどろおどろした何かを感じました。征服欲のようなものです。

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その彼女からの暴行回数は7回。どれもが後遺症になって体が痛みなす。すぐお医者さんへ行かなかった私が悔いられますが、あの頃、何処の医院もコロナで大忙し、かかりつけのない私には行くあてもありませんでした。今、4カ月が経ちますが、私はまるで,囚人のように、彼女の監視を受けています。彼女からの申し出があり、彼女のスポンサーは、私の行動を彼女が分るようにと、監視カメラを彼女の玄関ドアに付けました。彼女の室内からでも見えるそうです。そのせいで、何回か追いかけまわされました。

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この異常な暮らしから逃げたくもあり、長い事、暮らしたこの部屋への未練もある私ですが、市営住宅・県営住宅などへの移転も考えてみました。しかし調べてみると、たとえ抽選に当たっても費用がかかり、今の私の収入では暮らしが成り立ちません。そうした日々に何回も何回も死を考えました。夫亡き後にも考えなかったことですが、殺されるくらいなら自分で…等と。然し出来ませんね。折角78歳迄来られたのに、まだまだ働けるし、もっと生きて居たいです。

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彼女には法の裁きを受けて欲しいです。彼女の行為は自分の欲求を紛らす為の行為だそうです。この暴力を擁護する人々は、私が彼女を虐めて泣かせているから、私を追い出すと言います。この意味不明な論理。彼女は68歳の大人です。何故いじめられた等と言って泣かなくてはいけないのでしょか。その事こそが、彼女が病気ではないかと私が疑う所以です。
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