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ステージ衣装 [シンガー]

私が母の舞台をはじめてみたのは、たぶん小学生の低学年の頃だったと思います。当時母は未亡人になって数年の頃、ラジオからは今は懐かしい、流行歌が流れていたころです。みやこ(私)8歳、母36歳頃の話です。その頃の私たちは、空襲で家を焼かれ、知人の家の2階に住んでいました。当時の父の年齢は39歳、母33歳の頃。祖母と母と父と私。祖父の覚三郎は茨城県の人で終戦の翌年に亡くなっていました。


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私の父は長崎の出身、海軍工廠を出てから東京の明治大学、卒業後は、戦前の鎌田にあった、日本自動車・飛行学校へ就職。その会社が出版していた『スピード』という本の編集をしていました。戦争がはじまり紙がなくなった昭和18年には、私が生まれ、昭和20年の終戦を迎えたと母から聞いています。しかし戦争の思い出も父の思い出もほとんど無く、祖母の優しさに包まれた幼かった日々が記憶の中にあるだけです。


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昭和22年、結核を患っていた父が他界、母愛子、祖母みよ、娘のみやこは4歳になっていました。戦後という時代の中でしたが、母の強い生命力と、祖母の深い愛情で、何の不自由もなく、我儘いっぱいに、小柄な少女は育ってゆきました。みやこが小学生になったころ、住まいが早稲田に移り、母は日本橋の料亭に勤めておりました。気丈で、今でいう『小股の切れ上がったいい女』、母の愛子はのちにその料亭の女中がしらとなり、日本橋界隈を闊歩する毎日でした。

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その母は職業柄もあって、色々と芸事を習っていました。例えば日本舞踊。おけいこの日には私も一緒に。「チントンシャン」とお師匠さんの口三味線にうながされ、母と踊る『博多夜船』・ひとりで踊った『梅にも春』。遠い日々は、あまりにも楽しく麗しく、昭和という時代の苦さなど、幼い私にはまるで無かったようでした。


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美人で・頭がよくて、商売が上手な母は今でも私のあこがれ。芸事にも優れた母は踊りのほかにもお座敷歌や、詩吟なども。日本橋の料亭で行われた詩吟の会には、私も見物に連れて行ってもらいました。マイクなど使わず、母の声は朗々と響きます。その姿が今でも思い出されますが、磨かれた母の声はもう二度と聞くことはできません。母に衣装はいつも豪華な着物。いわゆる江戸前の粋な着物ばかりですが、後に母が言うには「着物を買わなけれは家が、あと三軒ぐらい建っていたわね」。この言葉につきます。家には紺屋さん(こうやさん)と母が呼ぶ染物やさんが始終来てくださり、次々と箪笥が満員に。


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子供の頃の母の芸事への印象は、幼い私の中にしっかりと残され、図らずしも、歌手になれた時、私はステージ衣装には、かなり拘り次々と買い求めることに。しかしここ数年はステージとは殆ど無縁の暮らし、数枚残ったドレスはクローゼットにしまい込んだままです。もう着ることは無い!そうは思っても今でも捨てることは出来ません。それどころか新調したまま、直用しなかったグリーンのドレス、裏地がついた絹のドレスです。人生の大先輩から最近いただきました。今年こそ、このドレスで、心身ともに再起動したい私です。


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今年も平戸ツツジが美しい花を咲かせています。


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