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流れる [回想]

我が人生を思う時、やっぱり、一筋縄では行かないのだと、しみじみ思います。自分ではほぼ覚えていないような幼い時分から今日まで、多かれ少なかれ、山あり谷あり。振り返ってみれば、4歳で父親が他界。そのためには母は仕事に付き、祖母と2人だけの寂しい暮らしでした。当時の事で覚えているのは、音羽幼稚園に通うあの道、秋が深くなると、銀杏の並木になります。

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4歳から3年間通った音羽幼稚園は、父の希望でした。音羽幼稚園は、護国寺のお隣にあり、同じ敷地に音羽ゆりかご会がありました。以前も書きましたが、幼稚園の帰りには、私は一面の紅葉に、一人戯れて時間を過ごしていたのですが、もしかしたら、音羽ゆりかご会から聴こえる歌声に聞き入っていたのかも知れません。

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そして小学校へ入学の時期を迎えました。青柳小学校は当時、日大豊山と大通りを隔てて向かい側の位置にありました。そうそう面白いエピソードが。入学式の日、母に連れられて門をくぐった私ですが、名簿にその名前が無かったのです。随分待たされた後に、漸くわかった事は、学校側は、私を男の子だと勘違いして、女子の名簿には記載されていませんでした。

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まさかと母も驚いたとおもいますが、間違いは,郁と都の取違。郁なら男の子、都なら女の子。そのように思われていたそうです。ずいぶん待って、漸く入学した青柳小学校。まるで幼稚園児ほどの小ぶりな私は席も一番前。2年生になるころ,一家は早稲田に転居。私は小さな体で、都電で通学することに。満員電車ですので、後部ドアから乗り、車掌さんが仕切りの中に入れてくれました。

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3年生になった私は早稲田小学校へ転校。毎朝、同級生が迎えに来てくれました。しかし漸く慣れた頃、今度は家から近い、鶴巻小学校にまた転校。鶴巻小学校は大隈講堂のすぐそばにありました。当時の鶴巻小学校では、建物の一部には、戦争で焼け出された方々の住まいもありました。転校したての私たちは、運動場の砂利をみんなで運びましました。

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そして、6年生まで担任して下さった今井先生。小さな私をいつも気にして下さいましたが、一つだけ許して頂けなかったことも。それは進学する中学を決める頃でした。私は共立を希望しましたが、先生は駄目だと。当時の私の成績評価は高かったので、どうしても受験させてほしいと頼みましたが無理でした。その頃、父がいない私には受験できなかった様でした。その後、別の女学校へ行くことが決まり、伝通院にある淑徳学園へ入学。

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私が高校2年生の夏の事、当時の私は勉学も学園生活も満喫して充実した日々を過ごしていました。ところがまさかの大事件に巻き込まれ、私の人生は此処で大きく変わります。その後の数年。私は家出をしたり、祖母のなき後の母を、大きく拒否しだしたのです。まだ大人では無い少女には、眩しいほどの母の暮らしを受け入れられない時期だったのです。

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あれから60年の歳月が流れ、私は今、母の遺影が唯一の救いです。大きな母の慈悲を受け入れることが出来なかった未熟だった自分、今頃反省しています。夫の残した借金で、母が私の為に残した家を失い、いままたい現在の住まいも居られそうにありません。隣室の女性から暴力を受けた私。あの日の恐怖、その後の体調不良。私はこれからもまた、流れる水のように、見知らぬ何処かへ流れてゆくのでしょうか?留まれない、何がこうさせるのか、一言で運命といいきるには、あまりにも残酷な運命です。
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