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どくだみの花 [黄昏は麗しく]

丸7年間住んだマンションの庭。最近は雑草が生えることは少なくなった反面、「どくだみ」が随分、生えるようになりました。数日前、白い花をつけた「どくだみ」を数本抜いて、部屋のテーブルに飾ってみました。ところがどうでしょう、とても雑草などとは思えないほど、存在感があって素敵です。


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今日はその『どくだみ』にまつわるお話です。私が小学生になった頃、私たち一家は引っ越しをしました。移転先は新宿区早稲田鶴巻町。あの早稲田大学から、幼い私が歩いても10分たらずの場所でした。当時は平屋の、商店のような造りの家、広い土間がありその奥には6畳が二間の家でした。トイレも汲み取りだったと記憶しています。時代は昭和26年頃だと思います。小学性低学年だった私は、鶴巻町の家から、文京区立青柳小学校まで、電車通学していました。早稲田鶴巻町から都電に乗って、江戸川橋で降り、また都電に乗り換え護国寺で降ります。電車では幼稚園児?とよく聞かれていました。そのせいか、いつも車掌さんの傍に置いて頂いた記憶があります。


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やがて早稲田小学校に転校、しかしそこも一年余りで、今度は家の近くの鶴巻小学校へ転向。早大の大隈講堂から数分の場所にその小学校はありました。鶴巻小学校では4年から卒業まで、担当は根本先生。給食が食べられなかった私のお昼は、祖母が届けてくれる暖かいお弁当。皆が食べ終わって運動場で遊んでいる間に、先生の傍で食べていました。同級生と給食を共にしたのは、5年生になった頃からでした。


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生まれてから私が17歳になるまで、いつも一緒だった祖母みよ。生まれは茨城ですが、しばらくして東京の九段に住むことになったそうです。祖父は郵便局へ勤めていたそうです。母には兄がいたのですが、20歳で亡くなったそうで、母が一家の柱として頑張ったのも、その祖母への思いやりだったと、今になって、しみじみ思います。


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昭和27年2学期、私は早稲田小学校へ転校。その頃には、早稲田鶴巻町の家も大工さんの手が入り、庭の一部には離れもできました。そこは、幼い私には、ほどんど入れない部屋でした。6畳、4畳半の2部屋がある離れは、丸窓や障子、床の間のある洒落た作りになっていました。離れを増築する以前は、敷地の半分以上が広い庭で、四季の花が咲く私の遊び場でもありました。


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祖母はその庭に、四季折々の花を植えていたようで、私もそこで花達と遊ぶのが何よりの楽しみでした。しかし母の離れが出来てからは、庭も小さくなり、母屋と離れの間に残った中庭だけになりました。母屋から離れまでは渡り廊下があり、右側にお風呂場、左が中庭になていました。幼い日に縁側で過ごした祖母とのひと時、本当に懐かしく、あのまま時代が過ぎてほしかった!今でもそう思うことがあります。


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今思えば私が祖母から言われて飲んでいた『どくだみ茶』も祖母が私のために干して、煎じて、作ってくれたものでした。私が小学生の頃、学校から帰ると祖母はいつもこう言いました。「みやこ、これ飲んでおきなさい、女の子は肌が綺麗になるからね」。そんな言い方だったと思います。確かに15歳になった頃から私の顔にはニキビもなく、色白ではないのですが、きめの細かい肌になりました。毎年毎年夏の頃になると祖母の作った『どくだみ茶』を飲むのが私の楽しみでした。あれから、半世紀を超えて私はまた生きています。


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今年の八月がくると、私、なんと七十九歳になります。自分でも本当に驚いています。しかし顔にはクスミと皺が。そこで思い出したのが『どくだみ茶』。今年こそ庭のどくだみを煎じて『どくだみ茶』を飲用してみよう~。祖母の大きくて暖かい手が、あの温もりがいつまでも、いつまでも恋しい~私です。

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花と雷鳴 [黄昏は麗しく]

静寂が街を甦らしている。夜のとばりに少しだけカーテンをずらし、庭を眺める私。手には金色の懐中電灯。先が、見えないほどの暗闇の中、目を凝らせて、懐中電灯を点ける。夜目にも美しい白い花。平戸ツツジは今の私の『命花』。


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少し早い夕飯を、雷鳴を聴きながら食べていた私。テーブルに置かれた購入したばかりのカメラは充電中。外は激しいほどの夕立。その雨音が激しくなったとたん、ゴロゴロ、ドスン!「あ落ちた」、思わず大声で、少し燥いだ声の私。遠い日の思い出は、やっぱり祖母と身を寄せた蚊帳の中。


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思えばずいぶん遠くに来たものです。「お母さん!もう少し待ててね!」母の遺影に呼びかける。昼間の重い空気が何故がよみがえる。あの緊張した時間、とても後味が悪い出来事。それは午後からの来客。信仰の篤い二人の女性が雨模様にもかかわらず、遠くから来てくださったのです、訪問の理由は、最近、立つ力も失せそうな私を心配しての訪問です。お二人は熱い仏教徒ですが、私の先祖へも祈ってくださいますが、同時に私にも毎日祈るようにと。


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お二人に導かれて数か月、しかし私にはその説法のある部分には、とても納得ができません。過去も現在も未来も、私の信ずる所は、池袋にある菩提寺。祖母に手を引かれ歩いたあのお寺。祖父母や父母、叔父叔母などが眠るお墓です。もともと文京区にあったお寺で、私が5歳の頃からの縁のあるお寺です。そのお寺には母の実家・親戚など、たくさんのご先祖が眠っています。法要やお寺の行事で聞くサンスクリット語でのお経は、幼心にも染み渡ったものでした。


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そして私の心の故郷は、祖母の実家のあった茨城県下妻市界隈。筑波山の麓、小貝川に向かって祖母と私があるいた夏休み。桑の葉と、もぎたてのトマト。祖母に手を引かれて歩いた田舎の道。煙の出るあの列車。祖母の故郷は下妻市大宝(だいほう)、そして祖母がよく言った「大宝まちとは」のまちとは大宝祭りのことでした。実家白井家は祖母が嫁いだ頃には、砂糖を商っていたそうです。祖母の笑顔が浮かびます。



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午後、庭の花たちと戯れた私。少し早い夕飯の支度と、部屋の戻ったその時、ゴロゴロ、次には耳をつんざくような雷鳴。ドカーンあっ!また雷鳴!。昔のような恐ろしさはありませんが…。やっぱり雷さん、今でも怖いです。そういえば、もっともっと凄い雷鳴を見聞きした事があります。このブログでも一何回かご紹介した28歳の頃の話にです。南十字星という歌にもあるような、星のきらめく素晴らしい夜空の町、インドネシアボゴールでの雷。夫の仕事に同行した28歳の私が経験した。怖いのに見たくなる凄い雷。


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夫の仕事の都合でインドネシアに着任して2日目の事です。赴任先ボゴールには見物したい場所がたくさんありましたが、赴任早々は、その後5年間を過ごす家探しです。しかし私は、母の病気で間もなく帰国。その為、思い出は多くはないのですが。現地について数日後のスコール。強烈な雨と、光と轟音が同時に起こる南の国の雷。怖いけれどその美しさに、こわごわ窓の内側から、私は見とれました。縦に線を描くように雷が、その音もダイナミックに。そういえば初日に車から見た、あの赤い花をつけた街路樹が、とてもエキゾチックだた事と、パサールで買ったランブータンと呼ばれていた甘いフルーツ。今でも思い出すことがあります。

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大宝の思い出も、ボゴールの思い出も今は夢の中。今夜はもう眠れそうにはありません。昨日から使い始めた新しいコンピューター、シルバー色のお洒落なコンピューター。今夜はこのまま眠らずに、朝靄の中で、平戸ツツジを眺めましょうか。午前3時の私、幸せ度100%。これが本当の私なのかもしれません。

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万年筆よ走れ! [黄昏は麗しく]

父の形見の万年筆を引っ越しで紛失、その後は100円ボールペンを愛用していた私ですが、先日パーカーのボールペン購入。この機会に少し私自身と社会とのつながりを考えてみたくなりました。朝の役所。電話の声の主は30代ぐらいの男性だと思われます。「よかった!きっと言いたい事の趣旨、分かって下さった!」電話の後、私はこう思いました。

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この川越に住んで50年、母にも夫にも先立たれ、今はたった一人の侘しい暮らし。只、音楽という生涯の友に恵まれ、老境の日々ではありますが、2012年から今日まで、この『麗しい黄昏の日々』を歩いています。ところが昨年の4/29から始まった激しい暴力、その結果、最近では雲の中を歩くような眩暈と、体のあちこちの痛み等があり、特に2021.05月初旬、彼女から受けた、右前頭部への、干しもの竿による打撲がとても心配です。当時はあまりの恐ろしさに身体が震えました。

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彼女の暴力はいつも不意打ち。そして暴力後も暴力前も無言です。住まいは同じマンションの一階。そのマンションの縁側、庭、廊下、エントランスホール等で突然襲われます。最近は自宅周辺の道路上などがその場所になり、今年の3月頃からは、本人だけでなく、数名の男性や女性達が、彼女に変わって、単独で襲ってきたりもします。事も無げに襲う、彼、彼女。知人かどうか、不明です。彼女は道の傍の公園で、それを観ています。私が暴力を受けるのを見物しています。ベンチの仲間と一緒に指さして揶揄したりしています。

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3月後半のある日の事、マンション近くの歩道で、私への加害者のA子、仲間のB子らが、自転車を使った、暴力がありました。直進の自転車で左わき腹に打撲。体当たりです。今でもその後遺症が強く、脇腹や肋骨がキリキリ痛みます。此れまでの被害も、警察へ通報しましたが、暴行を傍で見ていた人や、お医者さんの診断書がない等の理由で被害届を出させてもらえませんでした。しかし今回はこの様子を、数十台のサイクリング中の女性たちが目撃しています。暴力が終わった2人は、そのサイクリングの車列の中に潜り込んだのです。

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主犯のA子は60代後半、一緒に自転車をぶつけた女性も60代かと。その他の仲間は年齢所属不明です。今の所恐ろしいのはA子本人とB子ですが、周囲も私への暴力が楽しいのか、別の意味があるのか不明ですが数人が参加、実際に彼女の命令いっか、容易に私への暴行を加えてきます。何とも恐ろしい無法地帯のような光景が今繰り出されています。

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さらに彼女単独で行った暴行行為は、2021年4月29日から2022年4月27日の今日迄で、最低でも9回。人を利用したり、彼女に同行させた暴力が5回。合計14回。 この中には警察や人権擁護、法曹関係の方がとても吃驚された、右手首へ暴力があります。ある警察官の方は、剃刀は出さなかった?と心配されていました。それを聴いた私は、あの日彼女が行った行為を、どうしても許すことが出来ません。

命を落とすほっどの行為を何故、私へするのでしょうか?最初は訝しく思え、時間の経過に従って体中に起こった異変、胸が苦しく、意識朦朧でした。彼女の長い手で、手首内側の血管を鋭い爪でひねり出す行為)は、本当に地獄絵図、彼女はなんと恐ろしい人なのかと思いました。その後右手は物を持ちにくく、すぐ痛みます。あれは2021年6月24日夜の事、それを実行している彼女の恍惚の顔、それらが今でも、はっきり目に浮かびます。

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今年になってからは、彼女の単独行為は無かったのですが、マンションエントランス及びマンション通用口にて、外出の私を待ち伏せ、脅すような様子(威嚇)を同居中のB子と頻繁に。他人を利用した暴行は、今回の自転車による暴行(2人で自転車を脇腹にぶつけて来た)以外にも数多くあります。そんな場合、今回を除き彼女は、道の脇にある公園内でその暴行の様子を見ており、成功すると私を指さしたりして、同席中の仲間たちと手を上げてお笑いしたり、揶揄します。

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まだまだあるのですが、別人が彼女に替わって、私に暴行したのが3回。①洋服の女性がクレアモールパーク脇の道で正面衝突。胸に酷い痛み(濃いベーュ色のワンピースを着ていた)4/1マンションから出てきた着物の女性、クエアモールパーク脇の道で、わざと接近、私の左肩から胸めがけて自分の左肩をぶつけて来た。(体が左から少し捻じられたせいで、胸の真ん中から左付近、左腰骨、左足の膝に今でも痛みがあります)



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この文章を綴るに際し、それ相応の覚悟もありましたが、仕返しなどの本格的な暴力なったら大変。それが恐ろしく、躊躇もしました。然しすべて本当の事であり、この暴力が当たり前だとばかりに、彼女自身だけでなく、全く関係のない面々を引き連れての暴力行為にはどうしても許しがたく、心の底から哀しく思います。


川越在住50年目の今年、私の命を懸けたこの文章、拙文ですがこれをしたためました。本当に長い文章で申し訳ございません。しかしこれは中傷はなく、この現実を知って頂き、もっと明るくてもっと健康的は街づくりを行政にも働きかけ、人生最後の黄昏時代になっても、微笑みを絶やさないで送れる街に、お役所も私達市民も一丸となってみんなで作り上げてゆきたい、そんな気持ちで綴りました。


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命の萌ゆる頃 [黄昏は麗しく]

毎朝、目を覚ますと直ぐ庭に出る私、此処に来て以来、朝のご挨拶はまず庭に植えられていた植物の面々に。紫陽花・グミ・柏葉紫陽花・マンリョウ・そして平戸つつじ。豪雨の日も、雪の中も、日照りの日も、只ひたすら穏やかに、静に時をまっている。

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今夜のような金曜の夜には、OL時代から続く気持ちそのままに。嬉しくて楽しくて眠りたくない夜です。音楽を聴いたり、いつもは見ない深夜のTvを見たりと。そうそう最近は真夜中のコーヒーも必ず。大好きなチョコレートも忘れずに。そのすべては過ぎ去った日々の中の一コマ。私の青春も、ダンシング オールナイト。あの頃の疲れを知らない、青い日々。151cmの小さな体が広いフロアーを大きく巡ります。リードは当時大学生4年生のWさん。

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1962年頃の話です。まだ19歳だった私が社交ダンスに魅せられてのには、こんな理由があります。私が学んだ女学校では、体育の時間に社交ダンスの授業にあったのです。それは、『淑女のたしなみに』為でした。中高一貫の女学校へは家から都電に乗って通学していました。

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その後、晴れて19歳になった頃の私は、御茶の水にある専門学校へ通いながら、一方社交ダンスに夢中になっていました。母には内緒で、土曜日ごとに、渋谷まで通いました。渋谷駅の近くにあった、ハッピーバレーというダンスホールが私の目的地です。ダンスホールでは殆ど生演奏に乗って踊たように記憶しています。特に土曜日は一流バンドの演奏が多く、かなりの混雑でした。私達が特に好きだったタンゴは、今でも絶品だったと自負しています。パートナーWさんの、リードはまるで魔法。ほんのわずかなサインが、私の体を踊りの輪の中に。自画自賛ですが、まるで蝶のようにおどりました。夕方からラストまで、踊り続ける私とWさん。

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人生で初めてダンスを教えて下さったWさん、無口で、飛び切りダンスの上手な方でした。ダンスホールで待ち合わせ、ダンスホールでさようなら。そんな暮らしが1年近く続き。Wさんは卒業して大阪へ。当時の私は、母からお見合いを急かされておりました。まだ人生を生き抜く事への不安など、全くない日々。23歳で結婚したお相手は

13歳年上の幼馴染。ここから私は、先の見えない長い人生を歩み始め始した。今思えばもっともっと丁寧に先々を考えて生きるべきでした。


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現在、川越に住む私。小さな庭ですが四季折々を楽しめる小さな庭もあります。この庭の面々は、私の背丈ほどの木や草花ばかり。しかし気が付けば、私はこの庭の面々のお陰で、寂しさから救われ、生きる幸せを感じるようになりました。ここの家に来て7年の歳月が流れ、私はいつのまにか『辛抱』の意味を知り体。感することに。それは彼らのお陰なのです。彼らはどんな気象条件でも、どんなに私が手入れを忘れを忘れていても、自然と共に生き抜く力をもっていて、つねに凛として、その生き様を私に教えてくれたのです。

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今は何があっても恐れない、そんな私になりつつあります。春の庭には穏やかさがあり、夏の庭には日照りの厳しさもあり、秋の庭には哀愁もあり、そして冬の庭には…来る春を待つ楽しさがありますね。それでは今夜はこれで。皆様、今夜もお付き合いを頂き、有難うございます。

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 ※庭の平戸つつじが咲き始め増した。入居4年目から咲き始め、今年のはるはますます艶やかに。

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愚もない話 [黄昏は麗しく]

暦の上では単なる三月、しかしこの月は期末の憂いもかなり多い月でもありそうな、春弥生。若しかして私のような性格を貧乏性っていうのでしょうか。ともかく私は春が本当は好きなのに、どうっしたことか、この美しい花の季節なのにあまりいい事は起きません。きっと周りの華やかに深い孤独を感じるのかも知れません。幼い時分の私もそうでした。どういう訳か秋が好きです。


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さて昨今の私です。今回の期末は、私にとっては然したる動きのない日々が続いています。暮らし向きは少しも良くはなりませんが、心は案外解放されて(多分開き直り)少しさばさばした気持ちで荷物の整理に追われています。特に書類の紛失を無くすように部屋かたずけけには注意を払っています。


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そんな春の一日、近所の桜が今年も優しい色して咲き始めました。私にとって桜はどれも好きな花ですが、とりわけ以前の住まいの前にあった八重桜と、現在の住まい近くに植わっている4本の桜が、特に好きです。いいえ好きというより、この樹の運命と私の運命がどこかで繋がっている気がするのです。


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八重桜の方は移転後、殆どあっていないので、そろそろ開花時期になったので、今日明日にでも会いに行こうかと。亡母との思い出がいっぱいの大きな八重桜、母がこの桜を大層気に入って、観た瞬「此処に決めるわ」と即決でその土地を買いました。都内から八重桜前の家に引っ越してきた時、母が60歳私が28歳頃。沢山の、八重桜への思いはいつも母への想い…。


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早春の風に誘われて [黄昏は麗しく]

此処で、此処で私の運命が変わるかもしれない。そんな儚い希望をもって私はYさんと会いました。85歳というその顔は、以前より張りがあり、その目元の微笑みも穏やかな母のような微笑みです。しかし、この7年間、私はこの人に頭を押さえられていたことも事実でした。次々にその時々の想いが蘇る早春の午後。


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この店は大手スーパーの中にある喫茶コーナー。Yさんとの待ち合わせは午後2時。建物の入り口を入ってすぐなので、足元から吹き抜ける風が、私には些か気になります。しかし私.自らが起こしたアクションですので、我慢することに。先週の事でした。私は隣に住むYさんの嫁とその友人、彼女たちの暴力的,かつ執拗な嫌がらせに、とても憂鬱な日々を過ごしていました。然し行動を起こすのは時期尚早という考えがあったのですが、彼女の姑さんの、Yさんに逢ってみたくなりました。その人の口からあの真実を話して欲しいと願いながら。


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その待ち合わせ場所が、足元に風がぬける大手スーパーの喫茶コーナーでした。しかしそこは日本茶が自由に飲めるサービスもあり、買い物帰りの憩いの場所として、多くのお客さんで賑わっていました。私達はYさん持参のおにぎりや、コロッケなど軽い軽食を食べながら、ぼちぼちと本題へと話を進めました。その真剣でかなりセンシティブな話は、お互いに言葉を探しながら進んでゆきました。一時間が過ぎた頃、迎えの女性が来て分かった事は、暴力をした彼女は同時に私への悪口雑言をその人にも話し続けていたという事でした。そして目の前の私が彼女の言う悪い女にも見えたり、4~5年前にYさんお店で出会った私の面差しとが一致しないと、戸惑いの色を隠せない様子でした。


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帰路、川越駅構内の成城石井で買い物を。きょうも、長崎の特産物と130gの美味しい牛肉等々を買い、オリジナル袋に詰めてもらい、私は満ち足りた気持ちで川越駅東口にある我が家へ。夕暮れの街は急ぎ足で歩く人の波、波です。風が出てきた夕暮れの街にふと佇む私。「私、本当に此処を出た方が好いのかも知れない」等と迷いの多い小春の夕暮れ。多種多様の欲望が渦巻く街中は、今の私には不似合いの場所なのかも知れません。静な,緑の濃い、人が優しい場所、何処かにありますか…。





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女には『越えられない山』がある。 [黄昏は麗しく]

毎日のように、まるで仮死状態になる私。そろそろ年貢の納め時なのでしょうか。隣室の鬼女の攻撃を受けた日々から4カ月経ちました。彼女のスポンサーから先日、「A子は貴方が言うほどひどい事はしていない!」と言われました。どうじに「出て行け!」とも。いつでも彼女をかばうのです。仕方ないですね。わたしには男女の機微は分からないようです。

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何回も何回も警察へ届けても証拠が無いと言われ続けました。その為、彼女の暴力は続きました。しかし6月24日の手首への暴力では、彼女の会社の男性2人が同席していたのです。これにはびっくり。この事は立派な証拠の筈ですが。許せない事例です。

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用事があるからと迎えに来た2名の男性。ついてゆくとA子が玄関ドアの所にいました。吃驚した私の不意を突いたA子は、私の右手首を自分の脇腹近くに強くひっぱり、手首を表にしたり裏にしたりと。彼女がこのような特技を持つことが何故できたのか、後に知った私ですが。その時はただ怯えて身を細めて佇んでいました。

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手首の骨をぐいぐい締め付けたり、脈を取る辺りの血管を指でつまみ強く捻じったり、爪で押したりと、痛すぎて声も出ず頭がぼーとなりました。また息苦しくて倒れそうでした。かなり長い時間を痛めつけられていた気がします。A子は薄笑いを浮かべたり、恍惚状態になっていました。私は痛いのですが、不気味な彼女の行動に、女の内にあるおどろおどろした何かを感じました。征服欲のようなものです。

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その彼女からの暴行回数は7回。どれもが後遺症になって体が痛みなす。すぐお医者さんへ行かなかった私が悔いられますが、あの頃、何処の医院もコロナで大忙し、かかりつけのない私には行くあてもありませんでした。今、4カ月が経ちますが、私はまるで,囚人のように、彼女の監視を受けています。彼女からの申し出があり、彼女のスポンサーは、私の行動を彼女が分るようにと、監視カメラを彼女の玄関ドアに付けました。彼女の室内からでも見えるそうです。そのせいで、何回か追いかけまわされました。

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この異常な暮らしから逃げたくもあり、長い事、暮らしたこの部屋への未練もある私ですが、市営住宅・県営住宅などへの移転も考えてみました。しかし調べてみると、たとえ抽選に当たっても費用がかかり、今の私の収入では暮らしが成り立ちません。そうした日々に何回も何回も死を考えました。夫亡き後にも考えなかったことですが、殺されるくらいなら自分で…等と。然し出来ませんね。折角78歳迄来られたのに、まだまだ働けるし、もっと生きて居たいです。

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彼女には法の裁きを受けて欲しいです。彼女の行為は自分の欲求を紛らす為の行為だそうです。この暴力を擁護する人々は、私が彼女を虐めて泣かせているから、私を追い出すと言います。この意味不明な論理。彼女は68歳の大人です。何故いじめられた等と言って泣かなくてはいけないのでしょか。その事こそが、彼女が病気ではないかと私が疑う所以です。
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移ろい [黄昏は麗しく]

ご無沙汰しております。彼岸のお中日、家族が連れ立ってお墓参りへ。我が家では、祖母が陣頭になって母、そして私が。秋の陽は強いから、帽子をかぶりなさい!と、母の一言で私は麦わら帽子をかぶりました。あれから75年の歳月、祖母も母もいない今の暮らし。お墓はどうなっているのでしょうか。

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所で今春からの暴力騒動、結局私の負け。暴力を認めなかった彼女はお店をゲット。暴力を何時までも訴え続ける私は、今の家をでて、6畳一間の部屋での侘び住まいになりそうです。今や第二の都会になった小江戸川越、観光が命と切磋琢磨しているのに、その中の一件に、暴力を使う女がいるとは。

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しかし考え方変えて見れば、人を信じすぎる私のような馬鹿には店は任せられないのかも知れません。
私には夢がありました。私には計画がありました!泣き叫ぶ私にはなりたくないけれで、止めどもない涙の雫こぼれます。ではまた。

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二番街の秋 [黄昏は麗しく]

2021/08/25、私は78歳を迎えました。とても嬉しかったです。ここ数カ月の壮絶な戦いとも、此れでさようなら出来る。そう思ったら羽が生えて飛んでゆきたい気分でした。その10日前には、美容院へ行き、16年も切らなかった髪をバッサリ切ってもらい、髪を染め、パーマネントも。白い髪の混じり始めた長い髪ともこれでさようなら。
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さて、未練な昔話になりますが、歌のレッスン中に、束ねてあった長い髪を解こうとした私へ、「解くな!」と声が飛んで来ました。ただそれだけの思い出なのですが、妙に嬉しく、妙に悲しく、今も少しだけ寂しいです。その後も、柔らかく細いわたし髪は、づっと切らないまま伸ばしてまいりました。しかし歳月を経て、喜寿も過ぎた私はふと思ったのです。最期の日になって、棺に入るときは短い方が見た目が良いのではと。

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もうこの長い髪を風になびかせることもなく、綺麗に結い上げる事もなく、手入のしやすいショートカットにしようと決心したわけです。最近できた美容院は家から近い二番街にありました。家の裏手の住宅街ですが、何故か二番街と命名されています。

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最近は、二番街に小さな商店もポツリポツリと。美容院の隣にはライブハウスもあるようです。観光の町の入口にあるこの商店街、その賑わいは、私が転入した2015.08.27と比べると格段の相違です。

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美容院を出てから、知人が勤める宝石のお店を覗いてみました。指輪を始め、イヤリング、ネックレスなどのコレクションも随分あった私ですが、手元に残ったのは、母が父から贈られた結婚指輪だけになりました。結局、その日に私が買ったのは、普段づかいのネックレスが一本。デザインが気に入って購入することに。

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駅から3分ほどの私の住まい。二番街と向き合った格好で建っている古いマンションです。その一階に私の部屋があります。隣室に住む女性が、私に七度も傷を負わせた本人です。しかし会社全体で守られている彼女は、数日前にもまた、私を追い回しました。怪我はありませんでしたが、その後マンション付近で不審な男性がうろつき、不気味な思いをしています。

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私がこの街に転入した2015.08.26の頃、彼女が働く会社の本社は、この二番街にありました。商店街を10歩ほど歩くと、彼女の雇用先の会社になります。建物の2階に事務所がありました。私もその会社に自宅を売り、亡夫が残したままだった、多額の借金を返済しました。その後、会社のマンションへ入居することに。二番街の事務所で渡された豪華なキーは赤い根付で結ばれていました。あれから6年、事務所は移転し、隣室の彼女は何時しか新しい事務所に頻繁に出入りしています。

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体中に彼女の暴力を受けたにも関わらず、警察からの助けも得られない私は今、此処を去るべきだと思い、一か月ほど、役所の関係部署へ頻繁に行ったり、電話したりと。自立できるよう行動をしてきました。しかし福祉からの支援も殆どなく、結局は一歩たりとも話は進みません。命の危険を感じて暮らしています。今、二番街のざわめきの中にあるのは権力と欲望の中でうごめく人、人の波。遠い昔、ほろ苦い想いを捨てて来たこの街、私の最後の夢があっけなく消えていった二番街の初秋です。



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人生プラン最終章 [黄昏は麗しく]

朝早くからの電話。何事かと思ったら、歌ともだちYさんからの電話。90歳を過ぎても元気はつらつのYさん「考えてみたのだが…」と。要約すると今の儘では危険だから、転居した方が良いのではと。私も同様の見解です。確かに、この3カ月で5回以上に及ぶ、隣室女性からの暴力。これはもう限界です。喧嘩などしてはいないのに。何時も不意に何処から出てきて暴力的な行為の数々。本人は私に虐められていると、上司の前で泣いて訴えてるそうです。

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そんな日々ですから、私は仕事も手に付かず、家の出入りはおろか、庭に出て洗濯物を干すことも、綺麗に咲いた花達を撮ることも出来なくなりました。傷の殆どは、打撲でしたが、6月24日に受けた右手首への暴行は、相当痛かった事と、場所が急所を突いているので、かなり訝しいと思いました。手首の血管から出血させる事を狙っての行為ではと、後から聞いてぞーっとしました。この行為は、一般人が日常で使う喧嘩の手口にはとうてい思えません。

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寝苦し夜が明けた今朝の事、早朝なので安心して庭に出ました。紫陽花のあたりで隣室の縁側が視野にはいります。それを観たとき、私は一瞬凍り付きました。介護用、移動用とでもいうのでしょうか便器です。私も母の看病に使っていますしたが、その便器が布に包まれて大きなごみ箱のとなりに置いてあります。誰が使うのかは分かりませんが、お隣は一人暮らしの筈。介護で使っているのではと。若しかしたら、そのストレスが私への暴力行為だったのか。

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私も認知症初期段階での母を介護ことがあります。もう30年も前の話ですが、当時は認知症への知識がほとんどなく、とても大変でした。しかしその時間があったからこそ、今の私が存在している気がします。もし彼女が、介護の大変さに精神的に動揺していたとしても、今は地域に福祉の手が厚いと聞いています。何も私。への暴力を今の様に頻繁に過激にすることは無いように、思えますがすが。

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そうであったのなら、彼女の大変さ、苦しさもわかりますが、しかし、関係のない、他人の私に暴力という図式は、完全な甘えの構造です。68歳にもなって、自分の不満を、関係のない他人を傷つける行為
は、同情は、できるものではありません。高齢化時代に必ず起こる介護の問題、そのためには最後まで
自立できる自分を作るしかないのでしょうか。

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まさかの喜寿を迎えたこの年2020年8月から早1年が経ちます。なんという壮絶な一年間、コロナの恐怖は経済的恐怖へと。おまけに隣人からの暴力迄ついてきました。人生最大の危機です。しかし行くも去るも…と言われるように、すべてが覚悟の世の中。そんな日々で感じる孤独感はむしろ清々しくさえ感じます。もう一度、もう一度無から始めて見たいこの人生。

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さて私の人生プランのこの次は….そういえば、先日から素晴らしい歌をレッスンしています。『風まかせ』という歌です。瀬月内寂聴先生の作詞による素晴らしい曲です。何処からか、恩師I先生のピアノの音が聴こえて来るようです。心に沁みる音が。

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今後どうするのか、福祉に委ねるのか、自分で道を開くのか、いいえ開けるのか。どちらのしても前途が明るいとは思えません。しかし『歌』という力をフル稼働させることが出来れば、第三の黄昏王国を築けるかもしれませんね。今は、自分の力を信じ、自分を大切に生きて往く以外に、私の人生プランはありません。

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