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ランタン&ぼうろ [黄昏は麗しく]

体調不良を抜け出せないまま、お盆を迎えた私です。買い物も、今まで通りに行く気にもなれづ冷蔵庫の中にあるもので何とか暮らしています。とにかく、あのAという女性の暴力に会わないような、馬鹿らしい暮らし方をするしかないようです。いい年して子供のようにはじゃぎながら自転車で私を狙う彼女。回を増すごとに怒りより馬鹿馬鹿しい所業に唯々あきれるばかり。


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兎に角引っ越し。そんな気持ちで準備を続けていますが、なかなか転居先は見つかりません。公的な住宅募集にも応募してみましたが、ますます都内への道は遠くなってしまいます。引っ越し準備を半ばにしたままの家の中は、足の踏み場もないほど散らかり、危険です。おまけに天井からぶら下がった電球が点灯せず、今はおもちゃのようなランタンで灯を採っています。


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馬鹿馬鹿しい日々、もう丸一年も続くA子からの暴行。いくら警察へ訴えても彼女からの暴力は続きます。おまけに人の集まる場所で私がいかに悪い女性かという話を吹聴しているそうです。いづれにしても手も足もでません。自然消滅を待つばかり。彼女の一人芝居ではなく仲間の姿もちらほらと。生きた心地のない私ですが、何故が、この事件が仕事への気力をさらに増してゆくような、そんな気がする七月半ば。


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我が家のお盆は昨日から始まっているのですが、何も手につかない私はテレビで古い映画を見ています。昔見たことがある西部劇やいろいろ。映画は何もかも忘れられていいですね。先日、教室の生徒さんがお二人、ラジオで歌われました。何か新しい物語が、ここから始まるような、そんな気がしています。


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時計を見ると午前3時を少し回ったところ、お腹がすいたので、少し甘いボーロとほうじ茶で真夜中のティータイム。ぼうろは、栄太楼の黒みつ大人のぼうろ。上品でとても美味しいぼうろです。いつもは寂し暗い夜。なぜか今宵は心楽しい私です。おもちゃのようなランタンの灯、長崎の夜がふと思い出されます。


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そういえばあの夜の明かりもランタンでした。島原での一夜。遠い遠い過去のこと。23歳の花嫁と33歳の夫。夫との結婚生活に終止符を打ったのは、ボゴールの空の下。赴任先での仕事が終えるのは5年先でした。赴任後まもなく、川越に一人住んでいた母が危篤の電話。しかし戻ってみると、そう重い病ではありませんでした。人生とは何故か、思い通りにはならないものですね。





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純白の嵐 [シンガー]

午前6時の庭は、新鮮な空気で満ち溢れている。今週は金曜日以降を休みにしていたので、本来なら朝寝坊を決め込む予定でした。

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しかし、花たちが心配の私は、目を覚めるや否や庭に出ました。ひとまず右から左まで庭を見まわし、「良かった、大丈夫だった」と独り言。


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ここに住んで7回目の6月、いよいよ今年の梅雨が始まりました。昨晩の雨は心配した程でもなく、柏葉紫陽花も紫陽花も大丈夫でした。それどころか紫陽花は色味が一段と冴えて、雨に濡れた花が生き生きと美しい姿を見せてくれました。


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また一本の樹に50個以上の花房をつけた柏葉紫陽花も、吹く風に身を任せ、ゆらゆらと純白の花房を揺らしています。なんという美しさ、重いほどの花房は、小さな小さな花たちの集まりで,房の先端に見える小さな緑の蕾は、これから咲く、順番を待っ白い花です。


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ざわざわと一陣の風が柏葉紫陽花の房を揺らすとき、私はいつの間にか純白の風に包まれている自分を感じていました。



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紫陽花の雨 [黄昏は麗しく]

いよいよ梅雨に入りそう~、庭の植物たちがそう教えてくれます。家には桜はないけれど、5月の庭はツツジの後にはグミの小さく白い花、そして予期しなかった数十本の柏葉紫陽花の花。5月の心地よい風の中で思いっきり咲き競って呉れました。美しい!只、美しい花たち、その姿に私の命も燃えています。

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そんなある日、知人のMさん曰く「方角が悪かったのかしら」。私はその言葉にハッとしました。確かに恐ろしさのあまりに前後を確かめずに逃げるように自宅を出ました。その日から、私は事実上、母から受け継いだ家を失ったのです。それは夫が亡くなってから3年目、2015年の8月のことでした。

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夫が残した借金は予想以上に大きく、すべて私の身に。そして亡母の大切な家は、あという間に人手に渡りました。まさに無一文になった私、時の氏神に救われて、現在に至ったのでした。この7年間、人生の出直しのつもりで、一歩一歩、慎重に歩いてきました。そして昨年4月、まさかの大事件が起こります。マンションの隣室に越してきたAさん、彼女の暴力がスタートしたのは、彼女の入居から数日後のことでした。

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前からの顔見知りでしたので、何気ない挨拶の私に、彼女がはいた言葉は、「うるせい~クソ婆、出ていけ、出ていけ、あたしは偉いんだよオー、あんたなんかが口を利ける相手じゃない!」このような言葉が彼女の口から出たので、その後は口を利くこともなく数日が過ぎました。


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そして数日後、朝の庭で見たものは、縁側に座る猫の腹部にスリッパを滑り込ませ、空に向かて大きく蹴り飛ばすA子の姿、。私はすかさず、「何するの、やめなさい!猫がかわいそうじゃない!」と。「うるせ~クソ婆~」と私をにらみつけた彼女。縁側で両手を上げ、盆踊りのように手を動かしながらサッシを閉めました。2階のベランダより高く飛ばされた猫は土の上に落ちて、足を引きながら逃げてゆきました。私が転入して6年間、始終見ていたおとなしい地域猫の三毛ちゃんです。


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翌朝、庭に出た私が見つけたのは、木製の柵に括り付け、彼女と私の庭を仕切る柵に立てかけてある器具らしきもの。調べてみると、弱電流が流れるような猫除けの器具でした。そこで、A子に外してほしいと言いましたが、数日間無視でした。結局猫はその器具で痛い目にあったのです。その後、彼女からの私への暴力が始まり、4月29日から6月24日までで約10回。暴力は2年目に入った今も続いています。3月の脇腹、4月には胸の正面。左肩と左足。5月には胸と背中。こんな具合です。


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庭に面した6畳間には、母の遺影が壁にかかっており、写真は時々揺れます。意気地ない私を怒っているのでしょうか。「お母さん、そろそろ入梅ですよ!」。きのう私の庭に、少し早めの『紫陽花の雨』が降りました。たった一日の雨が紫陽花を美しく彩けてくれました。今朝の庭、私はひたすら無心に紫陽花を撮り続けました。

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どくだみの花 [黄昏は麗しく]

丸7年間住んだマンションの庭。最近は雑草が生えることは少なくなった反面、「どくだみ」が随分、生えるようになりました。数日前、白い花をつけた「どくだみ」を数本抜いて、部屋のテーブルに飾ってみました。ところがどうでしょう、とても雑草などとは思えないほど、存在感があって素敵です。


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今日はその『どくだみ』にまつわるお話です。私が小学生になった頃、私たち一家は引っ越しをしました。移転先は新宿区早稲田鶴巻町。あの早稲田大学から、幼い私が歩いても10分たらずの場所でした。当時は平屋の、商店のような造りの家、広い土間がありその奥には6畳が二間の家でした。トイレも汲み取りだったと記憶しています。時代は昭和26年頃だと思います。小学性低学年だった私は、鶴巻町の家から、文京区立青柳小学校まで、電車通学していました。早稲田鶴巻町から都電に乗って、江戸川橋で降り、また都電に乗り換え護国寺で降ります。電車では幼稚園児?とよく聞かれていました。そのせいか、いつも車掌さんの傍に置いて頂いた記憶があります。


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やがて早稲田小学校に転校、しかしそこも一年余りで、今度は家の近くの鶴巻小学校へ転向。早大の大隈講堂から数分の場所にその小学校はありました。鶴巻小学校では4年から卒業まで、担当は根本先生。給食が食べられなかった私のお昼は、祖母が届けてくれる暖かいお弁当。皆が食べ終わって運動場で遊んでいる間に、先生の傍で食べていました。同級生と給食を共にしたのは、5年生になった頃からでした。


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生まれてから私が17歳になるまで、いつも一緒だった祖母みよ。生まれは茨城ですが、しばらくして東京の九段に住むことになったそうです。祖父は郵便局へ勤めていたそうです。母には兄がいたのですが、20歳で亡くなったそうで、母が一家の柱として頑張ったのも、その祖母への思いやりだったと、今になって、しみじみ思います。


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昭和27年2学期、私は早稲田小学校へ転校。その頃には、早稲田鶴巻町の家も大工さんの手が入り、庭の一部には離れもできました。そこは、幼い私には、ほどんど入れない部屋でした。6畳、4畳半の2部屋がある離れは、丸窓や障子、床の間のある洒落た作りになっていました。離れを増築する以前は、敷地の半分以上が広い庭で、四季の花が咲く私の遊び場でもありました。


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祖母はその庭に、四季折々の花を植えていたようで、私もそこで花達と遊ぶのが何よりの楽しみでした。しかし母の離れが出来てからは、庭も小さくなり、母屋と離れの間に残った中庭だけになりました。母屋から離れまでは渡り廊下があり、右側にお風呂場、左が中庭になていました。幼い日に縁側で過ごした祖母とのひと時、本当に懐かしく、あのまま時代が過ぎてほしかった!今でもそう思うことがあります。


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今思えば私が祖母から言われて飲んでいた『どくだみ茶』も祖母が私のために干して、煎じて、作ってくれたものでした。私が小学生の頃、学校から帰ると祖母はいつもこう言いました。「みやこ、これ飲んでおきなさい、女の子は肌が綺麗になるからね」。そんな言い方だったと思います。確かに15歳になった頃から私の顔にはニキビもなく、色白ではないのですが、きめの細かい肌になりました。毎年毎年夏の頃になると祖母の作った『どくだみ茶』を飲むのが私の楽しみでした。あれから、半世紀を超えて私はまた生きています。


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今年の八月がくると、私、なんと七十九歳になります。自分でも本当に驚いています。しかし顔にはクスミと皺が。そこで思い出したのが『どくだみ茶』。今年こそ庭のどくだみを煎じて『どくだみ茶』を飲用してみよう~。祖母の大きくて暖かい手が、あの温もりがいつまでも、いつまでも恋しい~私です。

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孤独の代償 [シンガー]

私はどちらかと言うと、一人でいることが好きです。高齢化するほどに、気を遣わずに気儘に過ごすことが好きになりました。かと言っても、全く会話のない日々は辛いです。ここ三日ほど口を利いたのは、ヤマト便さんと佐川急便さんだけでした。


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食料品が届きました。大好物の大山ハムの詰め合わせ。別の荷物は、黄色いホーロー鍋。5月になってからは、食欲もそこそこ出てきたので早速料理を始めました。と言ってもハム野菜サラダに大好きな辛子明太子。これでは料理とは言えませんね(笑)


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昼下がり、いつものようにカメラを持って庭に出る私。口を利かない植物ばかりですが、晴れた日も、雨の日も、強い風の吹く頃だって、彼らはいつも其処にいてくれます。どんな環境だって、文句ひとつ言うこともなく、そこにいてくれる庭の面々。しかしそれぞれが思い切り主張できる季節が来れば、彼らの一番素敵な姿を現します。それに引き換え私という人間の我慢の悪さ。

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人間に生まれてきて良かった!そう思って生きてきた七十余年、本当に長い長い旅でした。その甲斐もなく今は、毎日が孤独な暮らしになりました。その寂しさに、狂いそうになる時だってありますし、いっそひと思いに…。今回はそんな事さえも考えてしまいました。夫を亡くして10年、母を亡くして18年。


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そして令和3年4月より人間を、人と思わずに、まるでマネキン人形のように、私の体中に暴力をふるう女性が出現。腕を捻じったり、頭を棒で殴ったり、胸や背中を思いきり殴ったりと。また、自転車に乗ったまま、私の脇腹へ自転車に乗ったまま直進。えぐるような感じで自転車のハンドルを握って脇腹に差し込みます。去年から続く女性からの暴行。その暴力には常に命の危険を感じます。そんな日々が一年去り、この4月から2年目に入りました。昨年は約10回、今年は2か月足らずの間にすでに4回。いづれも自宅から職場の間にです。女性が2名、男性1名に公園近くの道で襲われました。桜の時期でした。


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夫に先立れた頃も壮絶な日々でしたが、まだ60代でしたので、仕事にもプライべートでも、希望を叶える事も、出来ました。しかし今は絶望的です。その努力をする!そうした気持ちは持ち続けていたものの、10年経ってみれば、私はもう後期高齢者。隣室の彼女からの暴力には、これ以上耐えられません。生きる力さえ失せてしまいそうです。彼女には暴力をやめる気持ちはさらさらないようです。そもそも私に暴力をする意味さえ、私からすれば判明していないのです。前触れもなく、本人の気分で、いつも不意に襲われています。


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いろいろ考えてみたのですが、やっぱり一人暮らしがいけなかったのかもしれません。専門家に聴いてみると、暴力の標的になりやすいようです。自宅から教室までのほんのわずか、3~4分ぐらいの間に自転車をぶつけられたり、背中や、胸に体ごとぶつかってきたりします。


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そんな日々の中、幼いころからの友人より電話があり、池袋で会うことに。私の母の命日を覚えていてくれたのです。川越から池袋は東上線で30分ほどですが、昨日は地下鉄の小竹向原で乗り換えました。お寺のある要町までは、この方法が便利です。

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地下鉄を出て要町交差点を池袋駅めがけて歩くこと5分ほどで、目的のお寺に。大通りから少し曲がった場所にあるお寺には父母、祖父母。祖母や母の仲良しだったH様のお墓もあります。私も此のお墓に入れるように…、父母に頼んでお墓を後にしました。その後東武デパートに入りコーヒーとサンドイッチを。久しぶりの外食です。沢山の人、人の波。

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帰路は知人から頂いた沢山の品々を、これも彼女から贈って頂いた紺色のリックに入れて、池袋発の東上線に乗り込みました。なんと各駅停車に乗った私、久しぶりに成増。和光市。朝霞台…。本当に懐かしいです。電車の窓から見る町は少しも変わらないのに、私の身の上は本当にすっかり変ってしまいました。

 

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池袋を出た電車の中はゆったりと座れ、私はつい眠りに誘われそうに。しかし居眠りする暇もないほどの距離に川越はあります。車内にアナウスが響きます。しかしこのまま、降りたくないと思う私でした。それでも駅を降りた私は、急ぎ足で家に戻り、急いで庭に。雨上がりの庭では柏葉紫陽花も、少し色づいたグミの実も私を笑顔で迎えてくれました。







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ピザと銀座の緩い話 [歌手Miyako]

桜も咲き、ツツジも咲き、いつもの春ならば私は街の方々にある桜の名所を回っていました。しかし2022年の春は、2021年4月から始まった暴力に、この体も心も憔悴しきって、桜見物はほんの真似事だけ。何とも侘しい、なんとも悔しいまま、初夏のおとつれを感じる今日この頃。今夜はピザなど食べながらブログを綴ります。

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もう何年前になるのでしょうか、連れ合いの武が突然、会社を起こしました。私への相談もなく突然です。その頃の私は東京の会社から地元の会社へ移っており、輸入住宅の営業をしていました。家づくりには自宅の都合で数回に及ぶ経験もあり、建築士の学科試験は一度で合格。しかし製図の勉強は付け焼き刃では通りませんでした。


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数人で始めた会社でしたが、時代の風が吹いて、私たちの会社はアッと今に認知されてゆき、輸入住宅をメインに不動産の売買にも手を広げてゆきました。当時は母、アルツハイマーという診断を受け、特養に入所。新設されたばかりの特養は、小手指にありました。80歳になった母は、最初は戸惑っていましたが、新設されたばかりのホテルのような建物での暮らしに、少しずつ慣れてくれたのでした。

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川越から小手指へは車で通った私。当時はホンダのインスパイアーを乗っていました。初心者の時代から車はいつもホンダ。小さな体に大きな車を運転していた私でした。特養にお世話になってからも『母の愛犬マリちゃん』を一緒に乗せて小手指まで通いました。入所する前の母とは、この車で時々外出していたのですが、母はいつも後部座席、思い出の写真が一枚あった筈なのですが。


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現在の私は川越市に住まっておりますが、幼いころの母との思い出は殆どが銀座にあります。母の新婚時代は昭和の一桁時代になります。その母が父と出会ったのも旧丸ビルの喫茶店で。ビルの中にあった経済情報社という会社に父は努めていたのです。当時父の住まいも銀座、壱丁目にあるアパートメントで新婚の二人は暮らしたそうです。その後九段下の母の両親の近くにと、文京区竹島町に転居。私が生まれました。空襲で家を焼かれてからの、一家は音羽通りに面した知人宅の2階で間借り生活。傍には講談社もあり、父は記事を載せていたそうです。


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話を本題へ戻しますね。母と父のルーツは銀座、銀座です。したがって母の銀座愛は本物です。夫亡き後の母は

銀座・日本橋界隈に仕事を見つけ、私は幼稚園児の頃から母と二人で銀座ちょくちょく出かけました。主にデパートやレストラン、和装小物のお店等です。四丁目、歌舞伎座近くにある履物のお店へもよく立ち寄りました。20代にの頃、私が愛用した草履もそこで買っていました。履き心地のよい草履でした。また月ヶ瀬(コックドール)というお店にも必ず立ち寄りました。


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今思えば本当に贅沢な暮らしでした。しかし母は私が幼い頃から、父と出会い父と暮らしたこの街を、その何かを私に見せて於きたかったようでした。10代後半からの私の数奇な運命、それは図らずも、九段や銀座などという、母の歩んだ道を辿ることになります。この話はまたいつか、書いてみたいと思っております。さてピザの話でしたね。


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私の亡夫、武はピザが大好物でした。お酒もほとんど飲まない人でしたが、おいしいピザ屋さんを見つけてはかなり通いました。たしかにお店によって、生地も中身もスパイスも違いますね。昨晩の私はそのピザを無性に食べたくなりました。それから理由もないのに、沢山の思い出が洪水のごとく流れ出し、意識が薄れてゆくようでした。気が付けば午前2時半、冷めたビザがテーブルに。残りは翌朝、フライパンで温め食べきりました。


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私がピザを食べたかったのか、亡き夫が計らってくれたのかが定かではありませんが。その日、私は完全に立場も今後の生き方も、すっかり忘れてひたすらピザを食べたかったのです。大きな箱に入ったピザ。なんだか家族がいるような気がして、とても楽しい気持ちになりました。母の笑顔が涙の向こうに光ります。



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分かれ道 [シンガー]

庭のツツジが終わった日からたくさんの郵便が届くようになりました。どれもが大切な書類なので丁寧に読んで、返事が必要な分からポストへ。そして今日。待ちに待った県民住宅の抽選結果の発表。ドキドキしながら、PCで番号を探しました。

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何回も何回も探しましたが、私の番号はありませんでした。思わず、目頭を押さえます。次回は何時なのでしょうか。今年は1月・4月…となっていますので多分7月ごろかと思います。それまでここに置いて、下さるさるのでしょうか。


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転居を予定し家中の荷物を点検してみました。捨ててしまうにはもったいない気がしましたので、今に小さなミシンを買って、何か作ってみようかしら、とも。今回、抽選にはづれた場所は、今住んでいるマンションから30分ほど歩けば着くところでした。最近は高齢者の応募も多く、当選するまでに何回も落選を経験しないと無理のようです。


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それにしても、引っ越しをするのは今度で5回目、音羽から早稲田、早稲田から川越霞が関、そして川越霞が関から現在の住まい、さらに現在から、これから探す住まい。まさかの展開です。自宅以外に住んだのは今回が初めてでした。これからもずっとわが家がない暮らし、考えてみれば恐ろしいことです。もちろん私の力がなかったせいです。

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昨日は母の日。懐かしい母との思い出が次々に浮かびます。当時、母の日のプレゼントは毎回、日傘でした。藍染、私が好きなのですが、着物姿にも洋服でも似合うようにと。母はとても喜んで大切にしまっておきます(笑)

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さて人生の後半も過ぎ、高齢者となった私ですが、元来の楽観的な性格でどうにかなるとも思っていました。ところがまったく考えてもいなかった隣室女性Aさんからの度重なる暴力はもう20回を超えました。最近は公園に暮らす手下まで使って。

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このような現況に、行政も、警察もそれでも手を出せないのでしょうか。彼女の会社の社員たちも、事情が分からないまま、私を揶揄します。法治国家の筈なのに、どうしてこんな暴力が許されるのでしょうか。

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久しぶりに遠くに住む知人からの電話。「カラオケ喫茶のママやってみない?」と。有難いお話なのですが、あまり気が進みません。お酒の席は苦手です。しかしわずかな年金だけで、ここを出ては暮らせません。

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八方ふさがりの私ですが、いつかどこかに、何処かに灯が必ず見えるはずです。昔からすぐ迷路に入る私の思考、しかし必ず抜け出すことが出来ていました。今回も今は真っ暗な迷路ですが、きっと抜け出せると信じましょう~。昭和18年8月生まれ。令和4年8月で79歳になります。本当は自分でもびっくり!!

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彼女の暴力がなければ、2022年度も活動的な日々がおくれたのに…、そう思っていましたが、其れが転機になって、もっともっと素敵な生き方に巡りあえるかもしれませんね。8月まであと3か月。まだまだ希望は捨てません。



 

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花と雷鳴 [黄昏は麗しく]

静寂が街を甦らしている。夜のとばりに少しだけカーテンをずらし、庭を眺める私。手には金色の懐中電灯。先が、見えないほどの暗闇の中、目を凝らせて、懐中電灯を点ける。夜目にも美しい白い花。平戸ツツジは今の私の『命花』。


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少し早い夕飯を、雷鳴を聴きながら食べていた私。テーブルに置かれた購入したばかりのカメラは充電中。外は激しいほどの夕立。その雨音が激しくなったとたん、ゴロゴロ、ドスン!「あ落ちた」、思わず大声で、少し燥いだ声の私。遠い日の思い出は、やっぱり祖母と身を寄せた蚊帳の中。


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思えばずいぶん遠くに来たものです。「お母さん!もう少し待ててね!」母の遺影に呼びかける。昼間の重い空気が何故がよみがえる。あの緊張した時間、とても後味が悪い出来事。それは午後からの来客。信仰の篤い二人の女性が雨模様にもかかわらず、遠くから来てくださったのです、訪問の理由は、最近、立つ力も失せそうな私を心配しての訪問です。お二人は熱い仏教徒ですが、私の先祖へも祈ってくださいますが、同時に私にも毎日祈るようにと。


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お二人に導かれて数か月、しかし私にはその説法のある部分には、とても納得ができません。過去も現在も未来も、私の信ずる所は、池袋にある菩提寺。祖母に手を引かれ歩いたあのお寺。祖父母や父母、叔父叔母などが眠るお墓です。もともと文京区にあったお寺で、私が5歳の頃からの縁のあるお寺です。そのお寺には母の実家・親戚など、たくさんのご先祖が眠っています。法要やお寺の行事で聞くサンスクリット語でのお経は、幼心にも染み渡ったものでした。


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そして私の心の故郷は、祖母の実家のあった茨城県下妻市界隈。筑波山の麓、小貝川に向かって祖母と私があるいた夏休み。桑の葉と、もぎたてのトマト。祖母に手を引かれて歩いた田舎の道。煙の出るあの列車。祖母の故郷は下妻市大宝(だいほう)、そして祖母がよく言った「大宝まちとは」のまちとは大宝祭りのことでした。実家白井家は祖母が嫁いだ頃には、砂糖を商っていたそうです。祖母の笑顔が浮かびます。



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午後、庭の花たちと戯れた私。少し早い夕飯の支度と、部屋の戻ったその時、ゴロゴロ、次には耳をつんざくような雷鳴。ドカーンあっ!また雷鳴!。昔のような恐ろしさはありませんが…。やっぱり雷さん、今でも怖いです。そういえば、もっともっと凄い雷鳴を見聞きした事があります。このブログでも一何回かご紹介した28歳の頃の話にです。南十字星という歌にもあるような、星のきらめく素晴らしい夜空の町、インドネシアボゴールでの雷。夫の仕事に同行した28歳の私が経験した。怖いのに見たくなる凄い雷。


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夫の仕事の都合でインドネシアに着任して2日目の事です。赴任先ボゴールには見物したい場所がたくさんありましたが、赴任早々は、その後5年間を過ごす家探しです。しかし私は、母の病気で間もなく帰国。その為、思い出は多くはないのですが。現地について数日後のスコール。強烈な雨と、光と轟音が同時に起こる南の国の雷。怖いけれどその美しさに、こわごわ窓の内側から、私は見とれました。縦に線を描くように雷が、その音もダイナミックに。そういえば初日に車から見た、あの赤い花をつけた街路樹が、とてもエキゾチックだた事と、パサールで買ったランブータンと呼ばれていた甘いフルーツ。今でも思い出すことがあります。

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大宝の思い出も、ボゴールの思い出も今は夢の中。今夜はもう眠れそうにはありません。昨日から使い始めた新しいコンピューター、シルバー色のお洒落なコンピューター。今夜はこのまま眠らずに、朝靄の中で、平戸ツツジを眺めましょうか。午前3時の私、幸せ度100%。これが本当の私なのかもしれません。

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万年筆よ走れ! [黄昏は麗しく]

父の形見の万年筆を引っ越しで紛失、その後は100円ボールペンを愛用していた私ですが、先日パーカーのボールペン購入。この機会に少し私自身と社会とのつながりを考えてみたくなりました。朝の役所。電話の声の主は30代ぐらいの男性だと思われます。「よかった!きっと言いたい事の趣旨、分かって下さった!」電話の後、私はこう思いました。

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この川越に住んで50年、母にも夫にも先立たれ、今はたった一人の侘しい暮らし。只、音楽という生涯の友に恵まれ、老境の日々ではありますが、2012年から今日まで、この『麗しい黄昏の日々』を歩いています。ところが昨年の4/29から始まった激しい暴力、その結果、最近では雲の中を歩くような眩暈と、体のあちこちの痛み等があり、特に2021.05月初旬、彼女から受けた、右前頭部への、干しもの竿による打撲がとても心配です。当時はあまりの恐ろしさに身体が震えました。

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彼女の暴力はいつも不意打ち。そして暴力後も暴力前も無言です。住まいは同じマンションの一階。そのマンションの縁側、庭、廊下、エントランスホール等で突然襲われます。最近は自宅周辺の道路上などがその場所になり、今年の3月頃からは、本人だけでなく、数名の男性や女性達が、彼女に変わって、単独で襲ってきたりもします。事も無げに襲う、彼、彼女。知人かどうか、不明です。彼女は道の傍の公園で、それを観ています。私が暴力を受けるのを見物しています。ベンチの仲間と一緒に指さして揶揄したりしています。

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3月後半のある日の事、マンション近くの歩道で、私への加害者のA子、仲間のB子らが、自転車を使った、暴力がありました。直進の自転車で左わき腹に打撲。体当たりです。今でもその後遺症が強く、脇腹や肋骨がキリキリ痛みます。此れまでの被害も、警察へ通報しましたが、暴行を傍で見ていた人や、お医者さんの診断書がない等の理由で被害届を出させてもらえませんでした。しかし今回はこの様子を、数十台のサイクリング中の女性たちが目撃しています。暴力が終わった2人は、そのサイクリングの車列の中に潜り込んだのです。

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主犯のA子は60代後半、一緒に自転車をぶつけた女性も60代かと。その他の仲間は年齢所属不明です。今の所恐ろしいのはA子本人とB子ですが、周囲も私への暴力が楽しいのか、別の意味があるのか不明ですが数人が参加、実際に彼女の命令いっか、容易に私への暴行を加えてきます。何とも恐ろしい無法地帯のような光景が今繰り出されています。

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さらに彼女単独で行った暴行行為は、2021年4月29日から2022年4月27日の今日迄で、最低でも9回。人を利用したり、彼女に同行させた暴力が5回。合計14回。 この中には警察や人権擁護、法曹関係の方がとても吃驚された、右手首へ暴力があります。ある警察官の方は、剃刀は出さなかった?と心配されていました。それを聴いた私は、あの日彼女が行った行為を、どうしても許すことが出来ません。

命を落とすほっどの行為を何故、私へするのでしょうか?最初は訝しく思え、時間の経過に従って体中に起こった異変、胸が苦しく、意識朦朧でした。彼女の長い手で、手首内側の血管を鋭い爪でひねり出す行為)は、本当に地獄絵図、彼女はなんと恐ろしい人なのかと思いました。その後右手は物を持ちにくく、すぐ痛みます。あれは2021年6月24日夜の事、それを実行している彼女の恍惚の顔、それらが今でも、はっきり目に浮かびます。

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今年になってからは、彼女の単独行為は無かったのですが、マンションエントランス及びマンション通用口にて、外出の私を待ち伏せ、脅すような様子(威嚇)を同居中のB子と頻繁に。他人を利用した暴行は、今回の自転車による暴行(2人で自転車を脇腹にぶつけて来た)以外にも数多くあります。そんな場合、今回を除き彼女は、道の脇にある公園内でその暴行の様子を見ており、成功すると私を指さしたりして、同席中の仲間たちと手を上げてお笑いしたり、揶揄します。

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まだまだあるのですが、別人が彼女に替わって、私に暴行したのが3回。①洋服の女性がクレアモールパーク脇の道で正面衝突。胸に酷い痛み(濃いベーュ色のワンピースを着ていた)4/1マンションから出てきた着物の女性、クエアモールパーク脇の道で、わざと接近、私の左肩から胸めがけて自分の左肩をぶつけて来た。(体が左から少し捻じられたせいで、胸の真ん中から左付近、左腰骨、左足の膝に今でも痛みがあります)



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この文章を綴るに際し、それ相応の覚悟もありましたが、仕返しなどの本格的な暴力なったら大変。それが恐ろしく、躊躇もしました。然しすべて本当の事であり、この暴力が当たり前だとばかりに、彼女自身だけでなく、全く関係のない面々を引き連れての暴力行為にはどうしても許しがたく、心の底から哀しく思います。


川越在住50年目の今年、私の命を懸けたこの文章、拙文ですがこれをしたためました。本当に長い文章で申し訳ございません。しかしこれは中傷はなく、この現実を知って頂き、もっと明るくてもっと健康的は街づくりを行政にも働きかけ、人生最後の黄昏時代になっても、微笑みを絶やさないで送れる街に、お役所も私達市民も一丸となってみんなで作り上げてゆきたい、そんな気持ちで綴りました。


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命の萌ゆる頃 [黄昏は麗しく]

毎朝、目を覚ますと直ぐ庭に出る私、此処に来て以来、朝のご挨拶はまず庭に植えられていた植物の面々に。紫陽花・グミ・柏葉紫陽花・マンリョウ・そして平戸つつじ。豪雨の日も、雪の中も、日照りの日も、只ひたすら穏やかに、静に時をまっている。

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今夜のような金曜の夜には、OL時代から続く気持ちそのままに。嬉しくて楽しくて眠りたくない夜です。音楽を聴いたり、いつもは見ない深夜のTvを見たりと。そうそう最近は真夜中のコーヒーも必ず。大好きなチョコレートも忘れずに。そのすべては過ぎ去った日々の中の一コマ。私の青春も、ダンシング オールナイト。あの頃の疲れを知らない、青い日々。151cmの小さな体が広いフロアーを大きく巡ります。リードは当時大学生4年生のWさん。

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1962年頃の話です。まだ19歳だった私が社交ダンスに魅せられてのには、こんな理由があります。私が学んだ女学校では、体育の時間に社交ダンスの授業にあったのです。それは、『淑女のたしなみに』為でした。中高一貫の女学校へは家から都電に乗って通学していました。

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その後、晴れて19歳になった頃の私は、御茶の水にある専門学校へ通いながら、一方社交ダンスに夢中になっていました。母には内緒で、土曜日ごとに、渋谷まで通いました。渋谷駅の近くにあった、ハッピーバレーというダンスホールが私の目的地です。ダンスホールでは殆ど生演奏に乗って踊たように記憶しています。特に土曜日は一流バンドの演奏が多く、かなりの混雑でした。私達が特に好きだったタンゴは、今でも絶品だったと自負しています。パートナーWさんの、リードはまるで魔法。ほんのわずかなサインが、私の体を踊りの輪の中に。自画自賛ですが、まるで蝶のようにおどりました。夕方からラストまで、踊り続ける私とWさん。

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人生で初めてダンスを教えて下さったWさん、無口で、飛び切りダンスの上手な方でした。ダンスホールで待ち合わせ、ダンスホールでさようなら。そんな暮らしが1年近く続き。Wさんは卒業して大阪へ。当時の私は、母からお見合いを急かされておりました。まだ人生を生き抜く事への不安など、全くない日々。23歳で結婚したお相手は

13歳年上の幼馴染。ここから私は、先の見えない長い人生を歩み始め始した。今思えばもっともっと丁寧に先々を考えて生きるべきでした。


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現在、川越に住む私。小さな庭ですが四季折々を楽しめる小さな庭もあります。この庭の面々は、私の背丈ほどの木や草花ばかり。しかし気が付けば、私はこの庭の面々のお陰で、寂しさから救われ、生きる幸せを感じるようになりました。ここの家に来て7年の歳月が流れ、私はいつのまにか『辛抱』の意味を知り体。感することに。それは彼らのお陰なのです。彼らはどんな気象条件でも、どんなに私が手入れを忘れを忘れていても、自然と共に生き抜く力をもっていて、つねに凛として、その生き様を私に教えてくれたのです。

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今は何があっても恐れない、そんな私になりつつあります。春の庭には穏やかさがあり、夏の庭には日照りの厳しさもあり、秋の庭には哀愁もあり、そして冬の庭には…来る春を待つ楽しさがありますね。それでは今夜はこれで。皆様、今夜もお付き合いを頂き、有難うございます。

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 ※庭の平戸つつじが咲き始め増した。入居4年目から咲き始め、今年のはるはますます艶やかに。

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