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ピザと銀座の緩い話 [歌手Miyako]

桜も咲き、ツツジも咲き、いつもの春ならば私は街の方々にある桜の名所を回っていました。しかし2022年の春は、2021年4月から始まった暴力に、この体も心も憔悴しきって、桜見物はほんの真似事だけ。何とも侘しい、なんとも悔しいまま、初夏のおとつれを感じる今日この頃。今夜はピザなど食べながらブログを綴ります。

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もう何年前になるのでしょうか、連れ合いの武が突然、会社を起こしました。私への相談もなく突然です。その頃の私は東京の会社から地元の会社へ移っており、輸入住宅の営業をしていました。家づくりには自宅の都合で数回に及ぶ経験もあり、建築士の学科試験は一度で合格。しかし製図の勉強は付け焼き刃では通りませんでした。


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数人で始めた会社でしたが、時代の風が吹いて、私たちの会社はアッと今に認知されてゆき、輸入住宅をメインに不動産の売買にも手を広げてゆきました。当時は母、アルツハイマーという診断を受け、特養に入所。新設されたばかりの特養は、小手指にありました。80歳になった母は、最初は戸惑っていましたが、新設されたばかりのホテルのような建物での暮らしに、少しずつ慣れてくれたのでした。

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川越から小手指へは車で通った私。当時はホンダのインスパイアーを乗っていました。初心者の時代から車はいつもホンダ。小さな体に大きな車を運転していた私でした。特養にお世話になってからも『母の愛犬マリちゃん』を一緒に乗せて小手指まで通いました。入所する前の母とは、この車で時々外出していたのですが、母はいつも後部座席、思い出の写真が一枚あった筈なのですが。


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現在の私は川越市に住まっておりますが、幼いころの母との思い出は殆どが銀座にあります。母の新婚時代は昭和の一桁時代になります。その母が父と出会ったのも旧丸ビルの喫茶店で。ビルの中にあった経済情報社という会社に父は努めていたのです。当時父の住まいも銀座、壱丁目にあるアパートメントで新婚の二人は暮らしたそうです。その後九段下の母の両親の近くにと、文京区竹島町に転居。私が生まれました。空襲で家を焼かれてからの、一家は音羽通りに面した知人宅の2階で間借り生活。傍には講談社もあり、父は記事を載せていたそうです。


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話を本題へ戻しますね。母と父のルーツは銀座、銀座です。したがって母の銀座愛は本物です。夫亡き後の母は

銀座・日本橋界隈に仕事を見つけ、私は幼稚園児の頃から母と二人で銀座ちょくちょく出かけました。主にデパートやレストラン、和装小物のお店等です。四丁目、歌舞伎座近くにある履物のお店へもよく立ち寄りました。20代にの頃、私が愛用した草履もそこで買っていました。履き心地のよい草履でした。また月ヶ瀬(コックドール)というお店にも必ず立ち寄りました。


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今思えば本当に贅沢な暮らしでした。しかし母は私が幼い頃から、父と出会い父と暮らしたこの街を、その何かを私に見せて於きたかったようでした。10代後半からの私の数奇な運命、それは図らずも、九段や銀座などという、母の歩んだ道を辿ることになります。この話はまたいつか、書いてみたいと思っております。さてピザの話でしたね。


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私の亡夫、武はピザが大好物でした。お酒もほとんど飲まない人でしたが、おいしいピザ屋さんを見つけてはかなり通いました。たしかにお店によって、生地も中身もスパイスも違いますね。昨晩の私はそのピザを無性に食べたくなりました。それから理由もないのに、沢山の思い出が洪水のごとく流れ出し、意識が薄れてゆくようでした。気が付けば午前2時半、冷めたビザがテーブルに。残りは翌朝、フライパンで温め食べきりました。


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私がピザを食べたかったのか、亡き夫が計らってくれたのかが定かではありませんが。その日、私は完全に立場も今後の生き方も、すっかり忘れてひたすらピザを食べたかったのです。大きな箱に入ったピザ。なんだか家族がいるような気がして、とても楽しい気持ちになりました。母の笑顔が涙の向こうに光ります。



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